指揮者、演奏者、演出家が語る
チャイコフスキーの聴きどころ(1)
小林 研一郎(こばやし・けんいちろう)さん1940年生まれ。桂冠指揮者を務めるハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団をはじめ、国内外のオーケストラと共演多数。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのチャイコフスキー全曲録音が話題に。【交響曲】
「哀歌と民謡こそチャイコフスキーの真髄」
小林 研一郎さん(指揮者・作曲家)
チャイコフスキーは心情がただちに音に反映された人だと思います。白い雪が吐血で真っ赤に染まる様、凍えるような荒野に響く悲鳴、地獄からの声、彼はそれを音にできるのです。最高の魅力はエレジー(哀歌)です。私自身エレジーを指揮している時、チャイコフスキーの心に入っていける気がしています。第3番第3楽章はエレジーの極みですね。
彼は民衆と自分の心を一体化して、世界にこの美しさを広げようという心のある人でした。でも作品がそこまで突き詰められない時や、自身の私生活での不本意さもあり、いたたまれない絶望感に苛まれたのではないでしょうか。
心情がすぐに反映される。その本質はエレジー
それを表現するオーケストレーションの上手さといったらありません。特にフォン・メック夫人が出資を始めた時期、「交響曲第4番」あたりから、心の葛藤をオーケストレーションに託していく世界が見え始めます。絶妙に炸裂する金管楽器、それと融和する木管楽器、苦悩の表情をたたえる弦楽器……。
「交響曲第4番」第4楽章の第2主題に登場するロシア民謡「白樺は野に立てり」での金管楽器の使い方は、右に出る者はいないでしょう(レレレレドー♭シ♭シラーソーという下行音階が繰り返され、それが極まったところでファンファーレ主題へ)。
第6番《悲愴》第1楽章終わりでも金管楽器が炸裂し、天に向かって悲しみを訴えかけているようです。木管楽器はあらゆる箇所が見事!
また、苦悩を表出する時の低弦、とくに《悲愴》でのコントラバスはあまりにも雄弁です。ベートーヴェンのように、苦悩を超えて歓喜に至れと叫ぶのではなく、苦悩こそが人生だったのですね。
そして天からの声を聞いた時、その一瞬の光を見逃さないよう書き留めている姿も浮かびます。
17歳から使用している貴重なミニスコア「交響曲第5番」のミニスコア表紙と、第1楽章最後から第2楽章冒頭にかけて(下)と、第2楽章の終わりから第3楽章のワルツにかけて(上)の書き込み。東京藝術大学入学時から現在まで使用しているスコアには演奏日・オーケストラもすべて記録。何百回演奏を重ねても、「同じ富士山でも登頂するルートが無限にある。それだけ崇高だからこそ、さまざまなアプローチができるのです」。音の行間に宿る「無限の宇宙」を掘り起こす
一つ一つの音にどれだけの心情が込められているか──私たち再現芸術に携わる者は、「音の行間にある無限の宇宙」を掘り起こすことをしなければなりません。ですから、たった一つの音もないがしろにはできない。
苦悩の塊が吐き出されるような音を出すために、弦楽器奏者には「そこに苦悩の様々を込めて弓を引いて頂けませんか。4分音符ならば、その音の長さの中に重圧や様々な思いを眠らせてくれませんか」とお願いします。すると、うぅ……と呻くような音が鳴るんです。
苦悩を表現しながらも、華々しいフィナーレを迎える曲もあります。しかし私は、歓喜のメロディを歓喜にはしません。トランペットをあまり響かせないようにソルディーノ(弱音器)をつけてもらったり、コントラバスの出だしを微妙にずらして喜びの足を引っ張る感じを出したり。
ワルツにしても、《悲愴》第2楽章は4分の5拍子で書かれており、ワルツになり切れない悲しみを表現します。
コロナの時代に求めるもの、それは“歌”
悲しい時に人類が求めるものは何でしょうか。
ふと音楽が流れてきて、自分の心を満たしてくれる、それがチャイコフスキーだと思うのです。私の語る人生を、あなたの人生になぞらえて聴いてみてください、と寄り添うように。
彼の根底には民衆の心を捉える歌があり、実際数々のロシア民謡が引用されています。まずそれで聴衆の心に入り、その中に音楽家の本質が問われる対位法などを駆使している。
民衆が欲しているもの“歌”、それは私自身も同じです。初めての音楽との出会いは3歳の頃、太平洋戦争の最中でした。
艦砲射撃の爆音が聞こえる日々の中、体育教師だった父がある日、小学校の音楽室にあるピアノで童謡「月の沙漠」を弾き始めました。「月の沙漠をはるばると……」。はじめは旋律を訥々と、それが中間部でロマン派風伴奏に変わったのです。それは、天からの声でした。
その後私はベートーヴェンの第9に出会い、本格的に音楽の道を志すことになりました。あのような歌で世界を満たしたい。だから僕は、ゆっくりと行間の宇宙を味わいながらチャイコフスキーを演奏したいと思うのです。
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