運命を変えるパワーストーンの力 第5回(全7回) 人生の勝敗を分かつ、人知を超えた見えざる作用を“運(ラック)”と呼び、古代より人は、幸運をたぐり寄せるために「石の力」を信じ、利用してきました。今も、洋の東西を問わず成功者がひそかに信奉するパワーストーンとその生かし方を考えます。
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縄文人は、「石の力」を知っていた
北出幸男(ザ・ストーンズバザール代表)『日本ヒスイの本』(青弓社)など北出さんの著書は多数。手前の左2つが大珠の復刻。勾玉や原石も北出さんが販売。およそ5000年前、縄文時代には日本列島では稀なヒスイ文明が栄えていました。その中心地が糸魚川。この流域から九州北部、北海道までを網羅するヒスイの交易路が確立されていたのです。それは、同時代のエジプトやメソポタミア文明に匹敵するほどでした。
【縄文時代のヒスイ製品出土地(縄文時代中・後期)】日本ヒスイの歴史は約5000年を誇り、その交易圏は原産・加工地である糸魚川地方を起点に、広範囲に張り巡らされていた。(参照/長者ケ原考古館資料より)。ヒスイは、最初は「大珠(たいしゅ)」という細長い楕円形で5~15センチ前後大、ほぼ中央に孔が開いているものが用いられていました。縄文時代中期から後期にかけてのおよそ2000年しか存在しないものです。
驚くのは、硬くて加工しにくいヒスイを、石英砂を研磨剤に用い竹管で孔を開けるというシベリア伝来の技術を応用していたこと。主に、死者を埋葬した墳墓から発掘されており、呪術師を埋葬する際に子孫を守ってもらうため、死者の魂の不滅とパワーアップを願って副葬されたようです。
縄文人は、魔を回避するために、生命力を象徴する緑色を信仰していた文化がありました。
【三内丸山遺跡 環状配石墓】糸魚川産のヒスイは、縄文時代の特別史跡・三内丸山遺跡で発掘された墳墓などでも見つかっている。出典:JOMON ARCHIVES(青森県教育委員会撮影)いつまでも艶やかで普遍的なヒスイは神々しく、最高のお守りとして珍重されたのでしょう。
【縄文時代のヒスイ勾玉など】青森県朝日山遺跡の縄文時代晩期前半の出土品。縄文時代の勾玉は動物を思わせる形が多く、呪術者が使った。出典:JOMON ARCHIVES(青森県埋蔵文化財調査センター所蔵、田中義道撮影)やがて、弥生時代から古墳時代にかけては、勾玉が発展。
高天原で天照大神が猛々しい弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)を抑えるときに、勾玉のネックレスで身を守った神話にもあるように、その多くは護符として身につけられました。
勾玉勾玉の形の由来は動物の牙や魚、胎児、魂など諸説あり、形も多種多様。隣国へ輸出されていたこともわかっています。『魏志倭人伝』に、卑弥呼の後継者の女性が緑の濃いヒスイの勾玉を魏へ送ったと記されています。
その後、仏教の伝来と並行して、3500年ほど続いたヒスイ文明は長らく忘れ去られていました。江戸後期に国学が栄えたことから『古事記』を読み解いた学者たちにより、一時、勾玉に注目が集まったことはあっても、日本ヒスイの価値が見直されたのは現代になってからのこと。
1930年代、糸魚川地方でヒスイの原石が再発見され、1955年に産地の一区画のものが国の天然記念物に指定。そして、2016年9月には、日本鉱物科学会が「国石」として選定したのです。
糸魚川のヒスイの原石地殻プレートが沈み込む場所で産出。平均的な色合いは明るい灰色に緑や青みがあるもの。実はヒスイ分子を構成する原子に遠赤外線輻射作用があり、毛細血管の血流をよくして新陳代謝を高める薬石効果が認められています。また自然の中で瞑想するような癒やし効果も。
気持ちが和むとありのままの自分を受け入れられるようになり、生きやすくなるはず。日本ヒスイは、祖先から受け継いだ究極のヒーリングツールなのかもしれません。
〔特集〕成功者はなぜ「石」を持つのか 運命を変えるパワーストーンの力
撮影/大見謝星斗 取材・文/小倉理加 マップ/地図屋もりそん
『家庭画報』2021年9月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。