限りない安心感と喜びに包まれる時間
宇宙空間を輝きながら、光速で飛ぶツバメを表したドレスの絵柄。2羽が出逢ってぶつかると、暗闇に溶け込みながら融合し、消えていくという作者の想像の世界。地球上の生き物はもともとひとつだったことに想いを馳せて、後ろ側は2羽から発する光が繋がる図案にした。作る人/juno(ユノ)さん
幼い頃、お気に入りのカーディガンを公園のフェンスに引っかけて、穴を開けてしまったことがある。数日間絶望的な気持ちだったが、ある日学校から帰ると母が玄関で待っていて、穴を繕って上から花の刺繍をしたカーディガンを見せてくれた。
カラフルな花々が陽気に咲き誇る図案が楽しげで、穴を開けてしまった罪の意識は一瞬で浄化され、うれしさと安心感から私は泣いてしまった気がする。
母も母で玄関で私を待ち構えていたくらいだから、とびきり素敵にできた自信作を早く見せたくて、うきうきしていたのじゃないかと思う。カーディガンを着て母に抱きしめられ、私は世界一幸せな子供になった。今、刺繍をしていれば幸せなのはそのせいかもしれない。
普段使っている道具は至ってシンプル。構想を決めてごく簡単なイメージを描いたらすぐに刺し始め、刺してゆく中で細かいニュアンスを出してゆくことが多い。写真上は書籍掲載作品の手描き原稿。刺繍には布の補強や、持ち主の名前やイニシャルを縫いつけるといった実用的な面もあるけれど、刺繍をするいちばんの理由は、「あるとうれしいから」なんじゃないだろうか。あるいは「心強いから」でもいい。
世界各地の民族に伝わる伝統的な模様には魔除けやお守りのような意味があるし、太宰 治の『女生徒』には、誰にも見られない下着の胸のところに薔薇の刺繍をして得意になる描写が出てくる。自己完結した内向きの世界の中でも刺繍の存在意義はある。なによりも自分の気持ちがあがることが大切なのだ。
ならば刺繍をする時にも、刺すこと自体をうんと楽しんで良いのだと思う。子供のように素直な気持ちで、心のままを表現できたなら最高だ。
全身が針と糸になったような深い集中状態にいる時、日常の悩みや不安はすっかり消えて、完全に調和のとれたシステムの中でひとりでに身体が動いていくような安心感に包まれることがある。気づくと何時間も経っていて、頭の中がすっきり整っている。昔の人々は手仕事を通して神秘的な力と繋がり、長い夜や寒い冬を乗り越えてきたのかもしれない。
身に付けること以上に、手を動かす時間が力をくれる。その力はきっと現代の私たちの暮らしにもたえまなく注がれていて、本当はいつでも必要なだけ受け取ることができるのだ。
下の写真をスクロールして詳しくご覧ください。 作る人/ユノ 撮影/本誌・西山 航 スタイリング/chizu
『家庭画報』2021年11月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。