9月
月と秋草を愛でる
9月に入ると、残暑の日々の中にも、秋の訪れを感じるようになります。蝉の合唱と入れ替わって、朝に夕にと虫たちがすだく音が聞こえるようになり、空の色も少しずつ変わってきます。日々かたちを変える月もだんだん白く冴えてきて、空を眺めるのがさらに楽しくなってきます。
京都御苑にて望む、昨年の中秋名月。ふだんから旧暦を意識して暮らしていますが、そもそも旧暦は月の満ち欠けを基準の一つとしていますから、新月のころは新しい気を感じ、満月を一つの節目として心に刻むこともしばしば。これからの季節は、旧暦8月十五夜の「中秋の名月」、また旧暦9月十三夜の「後(のち)の月」など、月を愛でる行事が続きます。
今月は月を感じるひと箱を組むことにしました。
知り合いの花屋さんのお宅を訪ねて、秋草を愛でながら一服を。北大路堀川から程近い「花・谷中」は、谷中正道さん、眞理子さんご夫妻が営まれる生花店で、和花を中心に季節の花々に出会える場所です。
秋の七草は、萩、尾花(芒)、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗の7種。冷蔵庫を使わず、常温で花を管理。杉桶に入る店先の花々は生き生きとしていて、ここの花でないとダメだというファンも多いお店。今回は花生けの達人としても知られるご主人の正道さんが、贅沢にも秋の七草を生けてくださって、秋の訪れを感じる一服となりました。
茶箱は、木工家の松崎融さんの作品で、一木を刳(く)り貫いて作られた重厚感のある楕円形の箱に黒と銀色の漆が分厚く塗られています。
刳り物の茶箱、黒漆を施した器の中央に銀色が一筋掃いてある。蓋を開けると、中の道具に具象の文様が施されたものは見当たりません。月や秋草が描かれたものはわかりやすいのですが、色味や素材感で「そんな感じがする」というイメージを重ねるのも、お茶の醍醐味かなと思うのです。
それに谷中さんが本物の秋草を生けて待っていてくださるのですから、秋草文様の道具を詰め込むのは野暮な気がしました。わたしがカバンの中から包んでいた茶箱を取り出すと、谷中ご夫妻はすぐに「月だね」と言って、蓋を開けて中の道具を並べていくと「ふくいさんらしい渋好みだねえ」と楽しそうに見てくださいました。
粉引茶碗で一服。抹茶の緑が白い陶肌に映える。茶碗は川瀬忍さんの粉引筒茶碗。清らかで凛とした姿に一目惚れした茶碗で、眺めているだけでも自然の中の情景がいくつも思い浮かびます。単独でお茶をいただくのはもちろん、季節ごとにほかの道具との組み合わせを考えるのが楽しい一碗。今回は「白露」のイメージです。
菓子器は荒川尚也さんの蓋物で、こちらは「武蔵野」のイメージ。ガラスの表面の風合いを群生する芒(尾花)に、器物の丸い形を月に見立てています。
黒いガラスの器に、光を感じさせる菓子皿や菓子を。武蔵野文は、生い茂る秋草に月を配した古典的な文様で、調度品や着物などにも見られる秋の意匠。錫の盃を菓子皿にして、金平糖で月の光を表してみました。説明しないとわかってもらえないようなあそびですが(説明しても何それ?という感じでもありますが)、やっている本人はいたって真面目。道具を合わせながら、「あ、これ武蔵野だ!」と思ったり、「では月の光を入れなくては」などと想像はどんどん膨らみます。
しかし、亭主の妄想だけにお付き合いさせるにはあまりに申し訳ないので、実は一つだけ秋草の文様を仕込んでいました。
田所芳哉の細長棗で、ほかの道具の作家さんたちより少しだけ古いものになります。一見すると、ただの溜塗棗ですが、蓋を開けると、口の立ち上がりに蒔絵で秋の七草が描かれています。
一見地味だが、蓋を開けると立ち上がりに繊細な七草の蒔絵が。金色を中心に所々に色漆も用いた繊細な文様。茶を点てるとき、棗の蓋を開ける時間はそれほど長くありません。その瞬間にだけこの細やかな文様が目に入るように意匠を施した作り手の粋に、「まいりました」と思いながら、今回最初に選んでいた道具です。
主菓子にはお月さまを。谷中さんのご近所にある紫野源水の「水面月(みなものつき)」という菓子で、川に映る月を表しているそうです。
さざめく水面に映る月、底の小豆は川の小石だそう。こういうお菓子に出会うと、日本の自然の美しさ、それを小さな菓子の中で味わえることの幸せを、ひしひしと感じます。秋の深まりとともに、この菓子はまた少し違う意匠に変化するとか。谷中さんが生けてくださった七草もこの時だけの命。茶箱あそびの喜びは、こういった時々の出会いを共にできることでもあるのです。
・「花・谷中」Instagram
@hana.taninaka