松本幸四郎夫人・藤間園子さんが案内する「江戸の手仕事」 歌舞伎俳優の夫を支え、きものを着る機会も多い藤間園子さんが江戸時代から続いている物づくりの現場を訪ね、日本の装いの文化と伝統工芸の魅力をお伝えします。
前回の記事はこちら>> 右・コチニール、楊梅(やまもも)、茜などで染めた糸が織りなす美しいグラデーション。きもの/藤山優子(錦霞染織工房) 左・2006年作の「紅縞」。同じくコチニールや楊梅の染め織り。きもの/藤山千春(錦霞染織工房)第2回 吉野間道
藤山千春さん(染織着物作家)「錦霞(きんか)染織工房」を主宰し、「吉野間道」を現代的で洗練された色づかいで創作している藤山千春さん(右)と松本幸四郎夫人の藤間園子さん(左)。品川区大井町の工房にて。(藤間さん)きもの・帯/弓月京店 帯揚げ/和小物さくら 帯締め/道明 履物/銀座ぜん屋本店機音に導かれた物づくりの人生
藤間 藤山さんが物づくりをなさるきっかけとなったのは、幼少期の体験が結びついたと伺いました。
藤山 そうなんです。子どもの頃、夏休みになると必ず八丈島の私の母方の親戚の家に滞在して海まで遊びに行っていたのですが、その途中に2軒の機屋さんがありました。その前を通るときに機音が盛んに聞こえてきた記憶が、今でも残っています。この経験がなければ、ほかのことをしていたかもしれません。私は小さい頃から物を作ることが大好きで女子美術大学の付属高校に入学して、大学の工芸科に進み、4年間、草木を煮出して木綿やウールなどを染める、染めの仕事を学びました。
藤間 染織については大学時代に学ばれたんですね。吉野間道はいつから手がけていらっしゃるのですか?
藤山 大学で基本を学んだとはいっても卒業した頃は、売り物になるようなものを織る技術はありませんでした。そこで女子美術大学の学部長をなさっていた柳 悦孝先生にお願いして弟子にしていただきました。柳先生は吉野間道などを研究されたかたで、先生からその技術を学ばせていただいたんです。もう一人弟子になった女性がいたので、押し入れを2段ベッドに改造して、2年間ほど住み込みで働かせていただいてから独立いたしました。当初は、私にとっての仕事とは、生きる術でした。
ご自身のアイディアでオリジナル作品の創作も手がけている長女の藤山優子さん(右)とともに新作の色合いについて、糸を選びながら話し合っている千春さん。藤間 子育てをなさりながら機織りをなさったそうですね。私は機の音を聴いて育ったわけでもないのに、先ほど見学させていただいたときに機音に癒やされました。
藤山 本当に機音っていいですよね。娘たちはまだ小さかった頃は後ろにおぶっていると安心して寝てくれていました。その2人の娘も今は工房で一緒に作品づくりに携わっています。姉の優子は自身の感覚で私とは違う色合いやデザインのオリジナルの創作を手がけています。妹の美緒は私の意向を聞いたうえで織るなどの作業をしてくれています。
藤間 それは心強いですね。作品ができるまでにいろいろな作業があることを知りましたが、素敵なお庭には藍甕(あいがめ)まであるのですね。
藤山 藍甕は土を掘って土管を埋めて作ったんですよ。藍の管理はとても緊張する作業なのですが、甕が屋外だと、せっかく藍が建っても雨など気温の変化で腐ってしまうのでつきっきりで世話をしなければなりません。私は工房があるこの場所で生まれ育ちました。庭には臭木、矢車附子、日本茜などの植物も育てています。
藤間 東京の一角にあるとは思えませんね。実際に吉野間道を着させていただいて、自然のものから生まれる色の奥深さや藤山さんの自然に対する敬意のようなものを感じました。
藤山 色は植物の命をいただいて作るもの。自然からの贈り物なのです。
緯糸をビニールのひもで括る作業をしている次女の五十嵐美緒さん。「防染のためなので、かなり力を入れてきっちりと結ばなければならない作業なので手が痛くなることもあります」。