第19回 病院の不思議・獣医編
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
中年女性の新患の飼い主が言った。
「〇〇先生が野村先生に技術を教えたのは自分だと言っていましたが、本当ですか?」
「いいえ、そんな名前の人は知りませんが……」
そう答えながら色々と考えたが、知らないものは知らない、もしかしたら母校の教授が養子に出て名前が変わり、さらに脱サラ開業でもしたのかな、と無理矢理な想像をしてみたが可能性は低い。私はあまり気にしなかった。しかし数日後、別の新患の飼い主がまた妙なことを言う。
「〇〇先生とはご親友で、落第生の野村先生はだいぶ彼に助けてもらったそうですね」
「ええと……私は勉強はできるほうでしたよ。〇〇という名の友人もいません」
今度は大先生ではなく友人? 〇〇とは一体誰なのだろう。さらに別の日、やはり新患さんが、
「野村先生は誰も診れない動物を流行らせて、専売的に治療する商売人だと〇〇先生が言ってました」
と何だか複雑な感じの情報を提供してきた。
「へえ……それって上手くいくもんなんですかね?」
私はちょっと笑ってしまった。それからは正体不明の〇〇先生は創作をどんどんエスカレートさせ、しまいにはまるでスポーツ新聞ばりの変な“野村ニュース”の発信源となった。
「金持ちには媚びへつらい、貧乏人にはタメ口」「テレビ局に工作員を潜り込ませ仕事を得ている」「裏の顔は半グレ集団を率いるホストの親分」「覆面かぶって闇試合に出て逮捕されたことがある」「怒ると本物の機関銃を乱射する」……もう何でもアリ! となり、あまりの荒唐無稽さに今度はどんなだよ! とワクワクしてしまう自分がいた。
これらを聞いた人は、まあ野村だったらあり得るかなと思ったりするのだろう。派手な顔は生まれつきだから仕方がないが、素行にはよりいっそう注意を払おうと思った。
ヨタ話なら笑いごとで済む。しかし〇〇先生はとうとう私を最も怒らせる過ちを犯した。その病院から転院してきた可哀そうな犬は“過剰診断”と“過剰診療”で心も身体もズタズタになっていた。
腹には意味不明の乱雑な手術跡がいくつもあり、背中には錆びた注射針が刺さったままになっていた。たぶん薬液を打ち込んだ時に注射筒から外れたのだろうが、犬はそのままの状態で長く過ごしたらしく、酷い感染症まで起こしていた。
「言うことだけでなく、やることもいいかげんなんだな……」
ある晩、私は使命感から抜き打ち的に〇〇先生の病院を訪ねることにした。科学的に彼をよく観察し、考察した後に、因果を応報するかどうかを判断したかった。もちろん普段の私は意外と常識人なので、工作員と半グレを率い、覆面姿で機関銃を撃ったりはしない。
件の病院に到着した。併設されたトリミングルームで片づけをしていた少しトッポく見える金髪のトリマーさんが、ランボルギーニから降りる私を見て青い顔になった。私は口に指を当て、「しーっ」とやって彼女の動きを制止した。
ヤンキーメイクの女の子は恐ろしいものを目撃したような顔をして、「うちの先生はアッチ」と指で示した。どうやら彼女は私が現れた理由を理解しているようだ。
私は風のように素早く病院内に移動すると音もなく探索し、“創作ニュース大先生”らしき男の背後に立った。しばらくして魔物の存在に気が付いた彼は、死んだヒヒのような顔で驚愕し、意外な内容の第一声を血を吐くような声で叫んだ。
「そ、尊敬してます!」
そして彼は書棚から私の著書数冊を取り出し、震えながら小さく言った。
「サインをお願いできますか……」
大ファンが進化するとアンチになると言われているが、これがそうなのだろうか。私は本を受け取り、愛用の紫インクの万年筆でサラサラとイラスト入りのサインをしたためた。私のサインのイラストの絵面はその都度違うが、今回はサルを咬み殺すドーベルマンを描いた。そして相手の眼をしっかりと見つめ、初めて口を開いた。
「お前、ダメじゃん!」
彼は全面降伏して謝罪した。
「すみませんでした!」
その素直な態度に私は溜飲を下げた。そしてこれを機に短期間ではあったが、私と彼の奇妙な交流が続くことになる。