スーパー獣医の動物エッセイ「アニマルQ」 ペットショップを覗くと、ペット用フードの種類の多さに戸惑うばかり。添加物もいろいろ使われていそうだし。やっぱり納得のいく素材を使って私が手作りするヘルシーごはんが一番! ……え? どうしてだめなんですか?
一覧はこちら>> 第20回 犬たちの晩餐
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
大戦から四半世紀が過ぎ、産めよ増やせよ働けよと復興の日々を続けてきた我が日本国は、高度経済成長期の始まりにその手ごたえを感じつつ更なる邁進を続け、1970年代初頭の街にはもはや敗戦国の悲愴感は皆無であった。
戦争を知らない子供たちはギターをかき鳴らして歌い、もしくはゲバ棒を振り回してガス抜きに明け暮れるも、最終的には働きバチに身を転じ、会社のために命をかけた。レナウン娘が街を行き交い、スポーツカーがぶっ飛べばミニスカートがひるがえる、オー!モーレツ!の勢いがあったこの時代、とうとう動物の世界にも本格的な欧米化の波が押し寄せたのである。
それまで犬の生活といえば忠犬ハチ公のように完全なる放し飼いか、もしくは地面に打ち込まれた杭に鎖で繫がれるのが普通であり、いずれにしても“犬は外、人は内”が当たり前だった。
しかし海外から小型の純血種の輸入が増えるとともに室内飼育が一般的になり、当時はこれを座敷犬などと呼ぶようになった。犬たちは和室を駆け回り、ちゃぶ台の横の座布団に座り、夜になれば畳の上に敷いた布団で飼い主と一緒に眠った。
このあたりは今とほぼ同じだが、現代の犬事情と大きく異なっていたのはその食生活で、幸か不幸か犬の食事は人間のそれと同じだった。
「おーい哲也、夕飯はスキヤキだぞ」
「やったね、父ちゃん、明日はホームランだ!」
「わんっ! わんっ!」
「あらあら、茶々丸もこんなに喜んでるわ」
「わっはっは」
「うっふふふ」
狭いながらも楽しい我が家……with犬。蛍光灯のスイッチのヒモも、楽しげに揺れている。当時は人間の食べ物は犬には適さないどころか、毒になる!とは誰も思っていなかったからどこの家もこんな調子だったが、犬を愛する人たちが“愛犬にもっと良いものを食べさせたい”と考えるのは自然なことだった。
「どうやらアメリカあたりではドッグフードなるモノで犬を育てるらしい」
「それは実に革命的なことであるな!」
愛犬家たちは夢に思いを馳せた。実をいえば1960年には協同飼料株式会社より国産初のドッグフードの「ビタワン」が発売されていたが、当初は粉だったり硬いビスケットだったりして“食べ物的”ではなかった。
そのため、飼い主たちが理解できずあまり一般的ではなかったが、時が過ぎ、製品がペレットタイプになり、テレビコマーシャルでE・H・エリックが得意の“耳ピクピク”をさせながら「愛犬の栄養食、ビタッ! ホワンッ!」とやったあたりから爆発的にヒットしたのだった。
販売ルートは専らお米屋さんで、世のお母さんたちは「田中ですけど、いつものお米とビタワンを持ってきてね」と注文したものである。そんな中、愛犬家たちが「美味しそう~」と飛びついたのは「チャム缶」だった。
「♪僕ちゃんはチャムチャム、ワンちゃんに必要な栄養がいっぱ~い、チャムミーティフードチャム、新発売チャム♪」
そんなCMソングにつられて、まだ小学校低学年だった私は当時の愛犬リリー号に食べさせてやりたくなり、1日30円の小遣いを1週間分貯めて錦糸町駅ビルの犬屋さんの錦糸苑に向かったのだった。この店は別フロアーに熱帯魚のコーナーもあり高校生のお兄さんのアルバイトがいたが、その人こそ今でも動物好きのズィ・アルフィーの坂崎幸之助さんだった。
ハナタレ小僧だった私は買いもしないのに水生昆虫のケースをいじくりまわして、脳天にゲンコツを喰らった覚えがあるのだが、記憶が曖昧ではっきりしない。
かくして手に入れた最先端のドッグフードは輝いて見えた。外装を舐めるように観察する私。当時のチャム缶はオレンジ色のラベルで、ヘタッピな犬の顔のイラストが印刷してあった。説明文を読むとなんたることか、「これだけでは犬は育ちません、“残飯”を足して与えてください」と書いてあった。私はぎゃふん!となった。
何にしても黎明期はこんなものである。現在では両社とも長い歴史に基づいた素晴らしい製品を供給していることを付け加えておきたい。
今年で愛犬生活53年目の私の犬人生は、今日に至るまで理想の愛犬食を追求する旅でもあった。一応は科学者のはしくれなので、栄養のバランスを十分に考慮する頭脳はある。実際に私の育ててきた歴代のドーベルマンたちは平均よりも最大40パーセントも大きく育っているのだ。