第27回 ビクター、5代目ドーベルマンの真実
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
初夏を感じさせる6月の午後、自然が豊富なブリーダー宅の中庭でドーベルマンの仔犬たちはすやすやと眠っていた。親から離すことができる日齢に達したらそれぞれが新しい家庭での生活を始めることになるのだが、1匹だけ行き先が未定なのだという。
「隅にいる黒くて小さいのがそうです」御主人が言った。
「かわいいですね」と顔がほころぶ私。
「最初に売約をかけていただいた人が途中でキャンセルしたのです」
「ドーベルマンに精通している方だったのですか?」
「いえ、ワンルームマンションに住んでいて、しかも犬を飼うのは初めてだというOLの方でした」
「並々ならぬ覚悟があるのなら不可能とは言いませんけどね」と私。彼は続けた。
「実はその人に“母犬を抱えて持ち上げてみなさい”と言ったのです」
「何だか古代人の所有地の割り振り決めみたいですね」私は少し笑ってしまった。
真偽は定かではないが、大昔の村の長は各人に石を投げさせて落ちた場所までをその人の農地と認めたという話がある。土地の広さと持ち主の耕す力を釣り合わせるためだという。
「重いし、犬だって抵抗しますから入門者には酷でしたね」
「でもすぐに理解していただけたので、第二候補のトイプードルを扱うブリーダーを紹介しました」
「随分と違うけれど、この場合は選択肢としては正解ですね」と私。
昔と違って最近の繁殖家は、金さえ払えば誰にでも仔犬を売るわけではなく、何かと細かく面接をするが、不幸な犬を増やさないためには良い傾向だと思う。特に大型犬は決してファッションでは飼えない。力があるし運動量も多い、もちろん飼育費用も小型犬の数倍かかる。ましてドーベルマンである。
私はこの犬種を愛犬として迎え入れるようになって40年になるので、その特性を十分に理解していると自負している。
ドーベルマンは犬族の特徴の全てを過剰なまでに高めた特殊な犬だ。すなわち賢く勇敢で、飼い主に対しては忠実であり最高の伴侶となる素質があるが、その一方で他人には冷淡で警戒心があり防衛本能が発現しやすく、興奮症で暴走することも多々ある。つまりベテランでないと制御とコントロールが難しいのである。クルマに例えるならば、70年代のスーパーカーだと思う。
実用性と経済性を完全に無視して性能を高めた70年代のスーパーカーは恐ろしいほどに扱いにくい。有り余るパワーを使いこなす運転技術と自制心が欠落すれば、たちまち反社会的な凶器にもなり得る。また念入りな整備を怠れば、突然火の手が上がり乗り手の命を奪う可能性すらあるのだ。スーパーカー歴30年、今まで常に複数台を所有して30数台を乗り継いできた私の認識である。
ブリーダーの御主人が言った。
「……というわけで、この子は先生のです」
「嬉しいなぁ、本当に嬉しいなぁ、これが今度の私の犬かぁ……」
とりあえず私は仔犬をよく観察した。よく見ると頭に傷があった。母親の乳首を嚙んでお仕置きされたらしいが、これはよくあることだ。
「ん? 他の兄弟たちと違って、寝返りの度にウーウーと唸りますね」と私。こういう子は荒っぽく育つことがある。
「実はそうなんですよ」と御主人。
仔犬は視線の集中を感じたためか起き上がり、何事かと私の顔をじっと見つめた。「あっ! この子だけ瞳が灰色ですね」
「そういえばそうですねえ……」
それだけでなく、よく見ると何だか目つきがおかしい気がした。キョトンとしているのである。正直言って私は「どうやらこの仔犬はちょっとユニークなタイプであるな……」と感じた。
見れば見るほど、いろいろな面で手強そうな予感がしたが、“縁に感謝”するのが私流だ。
理想を求めたり、損得を気にしたり、そんな石橋を叩きまくるような生き方では真実の愛は芽生えないと常に思っている。何よりも私の犬に対する愛情は誰にも負けないし、豊富な経験と知識もある。
とにかく4代目ドーベルマンのオスカーを天国に見送ったばかりの私には、何が何でも5代目の仔犬が“今”必要だった。私は犬がいてくれるからこそ、「こんな世の中でももうしばらく生きてやろうか」と自分に言い聞かせながら、日々の激務に身を焦がしている。もしも犬がいないならこの世に未練など全くない。つまり犬の存在こそが私の生きる理由なのだ。
生半可な独りよがりの愛ではない。生き物を飼う行為は己の命を削って与えることだ。つまり極上の愛は与える愛なのである。それができて初めて犬からの信頼と愛情を知ることができる。