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【スーパー獣医 野村潤一郎先生の動物エッセイ】強者どもが夢の跡、大型熱帯魚の時代

2023.04.06

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スーパー獣医の動物エッセイ「アニマルQ」 病院のフロアの一角に置かれた水槽を悠然と泳ぐ大型魚、アジアアロワナ。金の光沢を全身に纏わせ、人を見透かすような眼で水槽の中から人間界を見ています。古代から生き続けてきた孤高の種族、大型淡水魚の魅力に囚われてしまった人々のお話。一覧はこちら>>

第28回 強者どもが夢の跡、大型熱帯魚の時代


イラスト/コバヤシヨシノリ

文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉

午後5時になった、今日も力いっぱい働いた、夕方の涼しい風が頰を撫でる。


男は腰にぶら下げた手拭いで顔の汚れを拭きながら、鳶の日当5万円を受け取ると、仕事着のまま通勤用の原付にまたがった。ニッカポッカをはためかせながら、夕暮れの道路渋滞を縫うように走るその姿はどこか嬉しそうだ。仕事の後は行きつけの熱帯魚屋に向かう。それが彼の日課だった。

店に入ると、新着の大型魚がいないか全ての水槽をチェックする。先ほどから中央に鎮座する大水槽に美しいアロワナが泳いでいるのがちらちらと視界に入るのだが、大好物に直行でアクセスはしない。あえて自分を焦らし、燃え立たせるように隅から順番に進むのだ。生物学的意味は不明だが、これは成熟した人間のオス特有の習性だと思う。

男の着古したジャンパーのチャック付きポケットは異様に膨れていた。厚い札束が常駐し、その出番を待っているのだ。熱帯魚趣味に夢中になってからは酒も女もギャンブルもほどほどになったので、金は貯まる一方だった。高額なサカナが入荷していた場合、サッと買えるように現金をいつも持ち歩いているのである。そもそも男性は、代金の用意もなくショーウィンドウを眺めてまわることはしない。

「スーパーレッドアジアアロワナ……値段は300万円か。少しだけ足りないな……」

男はため息をついたが、落胆している様子はなかった。即座に仕事を増やす決意をしたからだ。水槽に集中するあまり隣の客と強く接触したが、お互いに会釈して事なきを得る。見れば自分とよく似た風体をしている。実は大型熱帯魚の愛好家は圧倒的に建築関連の職種が多い。

この日はとりあえず家で待つサカナたちへのお土産として、生きた金魚を300匹ほど買うことにした。店員は通称コイ袋と呼ばれる厚いビニール袋に手際よく水と金魚と酸素を入れる。ボンベからシュバッと酸素充填し、ピチパチと輪ゴムを巻く音が耳に心地よい。

一つあたり10キロの水袋を両手にぶら下げて、人の気配のない自宅の戸を足で開ける。

「ただいま」

飼い主の帰宅に気が付いた巨大なサカナたちが一斉に身をうち震わせ、狂ったように鼻面を水槽の壁面にこすりつけながら歓喜の舞でアピールする。

「おっ、エサが来た、おい、こっちだこっちだ。早く来い、エサ兄ちゃん!」

サカナたちは犬のように飼い主そのものに懐くわけではないのだが、このほどほどの距離感がまたよい。男は買ってきた金魚を50匹ほどアミですくって水槽に入れた。愛魚たちが大きな口で金魚を丸呑みする音は、バコン、バコン、と水槽の外にまで響く。ハイライトに火をつけた男は小さくつぶやいた。

「今日も元気だ金魚が美味い……」

咥え煙草の火に照らされた幸せそうな顔が、柱にかけられた貰い物の髭剃り鏡に映っている。まるで妊婦のように膨れた満腹の腹で、満足そうに水底に沈む愛しき怪物たち。その背中に先の採餌の衝撃ではがれた金魚のウロコがキラキラと降り注ぎ、熱帯魚用蛍光灯の青紫の光が照らす。

「みんな、もっともっと大きくなれよ」

男は紫煙をくゆらせながら今夜も至福のひと時を楽しむのであった。
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