スーパー獣医の動物エッセイ「アニマルQ」 犬と人は最初からセットだったというのが野村先生の持論。犬の力を借りて、人は猿から成り上がり、巨大な人間圏を築いたのです。けれど “地球の覇者” たる人が、今地球にもたらしているものといえば環境破壊、戦争……。人と犬の明るい未来は訪れるのでしょうか。
一覧はこちら>> 第29回 地球の覇者
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
頰を心地よく撫でては空高く舞い上がるそよ風は、命の季節の始まりを告げる春の女神だ。
冬を耐えた生きとし生けるものたちに、優しい笑顔で目覚めの鐘を鳴らす。閉じたまぶた越しに感じる暖かい太陽は全ての生命の父であり、青空でさえずる小鳥の歌も、萌える緑の匂いも、この世界の全ては “それ” がもたらしたものである。
男は色とりどりの花が咲き乱れる大地に、大の字に寝転がっていた。左肩のあたりには愛犬が丸くなって眠っているが、これを俯瞰すると「犬」という文字になる。
すなわち「大」は安心しきって両手両足を投げ出しているヒトであり、「点」がイヌである。合わせると「犬」となるが、それは二者が揃って初めて成立する “理想的な人類” を意味する。
「大」がなければイヌは無意味な点であり、「点」がなければヒトは不安げに立ったまま彷徨う「人」でしかないのだ。ヒトがヒトらしくあるためにはイヌの存在が不可欠であるという私の持論ではある。
満足げに眠る愛犬の寝息を聞きながら男は思った。
「俺は幸せだ。これ以上の一体何を望むというのか?」
誰だって世界中で一番の場所は何処だと聞かれれば、母親の膝の上と答えるだろう。これに匹敵するほど本能的に格別なのが、イヌに守られたのんびりした時間なのだ。
「この一瞬がいつまでも続けばいいな」
男がそう言いかけたその時、突然辺り一面が暗黒に包まれた。激しい雷鳴が轟き、稲妻が走る。「一体何が?」。
驚いて目を開けて起き上がると、今までの穏やかな春の花園の景色は一変していた。目の前に広がるのは暗黒の空と激しく点滅する稲光、そしてそれに照らされる荒れ狂う血のように真っ赤な海だった。海面からは沢山のごつごつした岩がそびえているが、その突き出した岩のひとつに誰かが立っているのが見える。古代ローマ人のような古風な服を強風にあおられながら、その “誰か” は男の頭の中に強く響く声で話しかけてきたのだった。
「世界はそう遠くない未来に終焉を迎える」
男は驚き、「あなたは誰なのですか」と問いかけようとしたがやめた。その “誰か” の顔はまぶしい光に包まれていて太陽そのものだったからだ。
「お前はあと100年生きなければならない。犬を絶やさずに次の人類に引き継がせるのだ」
「ええ? 何ですって?」
「お前が歳をとる時間が周囲より遅いのはそのためだ」
「理解できません」
「今の人間がいなくなった空白は、すぐに別の種類の動物が埋める」
「なぜそうなるのですか」と男が問おうとした次の瞬間 “無” が訪れた。音も光もない世界がしばらく続いた。やがて男は温かい何かを頰に感じた。それは春の女神ではなく愛犬の舌だった。
都会の喧騒、ブラインドから差し込む朝日、いつもの寝室……。悪夢にうなされた男の涙を心配した愛犬がせっせと舐めとっていたのである。