スーパー獣医の動物エッセイ「アニマルQ」 自らの意思で飼われるのではないペットの動物たち。動物と飼い主にはさまざまな出会いがあり、動物にとっていい出会いもあれば、残念ながらよくない出会いもある。動物病院の日々の陰には、病院を訪れることなどできない動物たちが多くいて、新たな家族に迎え入れられる機会もない彼らは、多くを望むことなく、寡黙に今の一瞬一瞬を生きている。ちっぽけな幸せな思い出だけを映す、そんな瞳で世界を見つめて。
一覧はこちら>> 第32回 かあちゃんの虹
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
そんな何も無い世界がいつから始まったのかは覚えていない。でも今、オイラは自分の身体があるという実感があって、温かい水の中でフワフワと浮いているんだよ。
オイラのオヘソには紐が付いていて、そこからは常にびっくりするくらい素敵なものが流れ込んでくる。オイラの身体を育てるための栄養になるものらしい。そしてよくわからないけれど、幸せな気持ちになる何かもいっぱい入ってくる。それはきっとオイラを世界で一番大切に思ってくれているかあちゃんの愛情なんだろう。ああ、気持ちいいな。安心だな。ずっとここにいたいな。
でもそうはいかないみたい。オイラが浮いていた温かい水が流れ出ていくよ。身体が締め付けられる。オイラはどこか知らない場所に連れていかれるらしい。オイラは硬い何かに押し付けられた。そうか、水から出て地面に転がったんだね。
紐からは何も来なくなった。苦しいよ。でもすぐに大きな口が現れてオイラを包んでいた膜を破り、おなかの紐を優しく嚙んでちぎったよ。そして柔らかくて温かいベロでオイラの体中をなめてくれた。そのたびに鼻や口から水が出た。
胸の中が空っぽになると空気が入ってきた。オイラは力いっぱい吸い込み、思い切り吐き出したんだ。きっと「ぴぃー」って大きく鳴いたんだろうと思う。オイラはまだ聞こえていなかったし見えなかったから、たぶんの話だよ。でもね、鼻だけはよく利いていたんだ。初めて経験する身体の重さ、それに負けないようにいい匂いのする方に一生懸命に這いずって乳首に吸い付いたよ。オイラは思った。これがかあちゃんか、かあちゃんなんだね。これからはオヘソからじゃなく自分の口から食べるんだね。
オイラはかあちゃんのおっぱいを飲んでは眠り、ウンチとおしっこをなめてもらっては、またおっぱいを飲んだ。ある日、くーんくーんって優しい声が聞こえてきたよ。かすかに見えるようになった目を凝らすと誰かがいる。かあちゃんだ。これがオイラのかあちゃんの姿か。あはっ、かあちゃんって白い毛皮だったんだね。でもボロボロだね。汚れているし痩せているね。
オイラの兄弟はいないみたい。きっと何かあったんだね。かあちゃん、苦労したんだな。オイラを産んでくれてありがとね。温かくておいしいおっぱいのかあちゃん、フワフワでいい匂いのかあちゃん。オイラはおなかの中から出ても、かあちゃんがいるから幸せだよ。