リニューアル開館によせて大亀の奇縁
──武者小路千家第15代家元後嗣 千 宗屋茶道具や美術品に関わっているとおよそ人智を超えた不思議な体験をすることが多々ある。はや連載5回目を数えるこの企画、今回は新しくできた展示室に初めて、秋以降に寄託先から戻ってきた作品から見たいものをピックアップし拝見させていただけるという贅沢なものだ。
重要文化財 交趾大亀香合(こうちおおがめこうごう)
詳細は前編記事にて。私はこの機会に藤田傳三郎翁が晩年渇望されながらも、亡くなる直前に落札の報せを枕頭に知らされ、莞爾として微笑まれたという生島家伝来 現在は重要文化財に指定された「交趾大亀香合」の拝見を所望し、その邂逅が叶う日を指折り数えていた。
そんなある日「すごいものが手に入ったので見て欲しい」と知り合いから連絡があった。送られてきた画像を見て驚愕した。なんとそれは色こそ違え藤田美術館秘蔵と同じ「交趾大亀香合」だったからだ。
交趾とは、現在のベトナム北部の地名を指すが、実際には中国福建省漳州(しょうしゅう)窯系の民窯で明末期から清代にかけて焼かれた、緑・黄・紫色の三彩のいわゆる交趾釉が施された焼き物を指す。
そのうち香合は型による生産で、鳥獣や花実を象った掌に収まる小ぶりな合子が、茶の湯の道具として我が国に輸出された。
吉祥の生物である亀を象った香合は数種類あるが、その中でも一際大ぶりな大亀は圧倒的に数も少なく珍重され、まして惣黄色のものは藤田美術館のものただ一つである。
送られてきた写真の香合は、緑釉を基調として甲羅には黄色や紫、赤茶色の白檀塗も施された華やかなもの。ぜひ拝見させていただきたいと約束した日は偶然にも美術館での撮影の前日となった。
春慶塗面取りの箱から恭しく取り出されたいちご裂の四つ手の仕覆、それを解き黒塗りの箱の中には四本の裂の柱に守られて丁寧な仕立ての金襴の仕覆に包まれた大亀香合が現れた。
釉薬がよく溶け艶やかで手取りもしっかりした大ぶりな香合は、大亀の名に恥じない見事なものだったが、私が気になったのは付属品の次第だ。裂の選択、入念な仕立て、外箱の作り、どう見ても藤田家のそれを連想させる。
かつて同家では、収集した美術品の保存管理のため表具師から指物師、袋師が常駐し、特有の箱や次第を仕立てていた。この香合の来歴は明らかでないという。しかしこれほどのものが無名であるわけがない。
上・法隆寺金堂天蓋附属飛天像(ほうりゅうじこんどうてんがいふぞくひてんぞう) 下・法隆寺金堂天蓋附属鳳凰(ほうりゅうじこんどうてんがいふぞくほうおう)
詳細は前編記事にて。その明くる日、藤田美術館の新展示室に私はいた。続々と運び込まれた法隆寺飛鳥の飛天、平安の見事な花蝶蒔絵の挾軾、古井戸「老僧」や光悦の「文億」は新しい空間の中で晴れがましくもどこか照れ臭そうだ。
そこに現れた待望の交趾大亀香合は、全体が柔らかい黄釉に包まれ、愛らしさの中に無二の存在感を放っていた。何より世に数が極めて稀とされている香合を二日連続相次いで間近にできた僥倖に私は信じられない気持ちになり、香合が何かを訴えているように感じた。
清館長に、前日に見た香合のこと、その次第がこちらの仕立てによく似ていることを伝えた。すると館長は「実は傳三郎の存命中にすでに大亀香合が入っている記録があるが、現存している香合と明らかに様子が違う。該当するものは今美術館にないので、あるいはそれの可能性もありますね」とのこと。
後日お調べいただいた結果、色といい寸法といい、仕覆や箱の次第に至るまで記録との一致を見、それは藤田家にかつてあったもう一つの大亀香合であることが明らかとなった。
子煩悩だった傳三郎は三人いた息子のために、同じタイプの美術品を三つ求めて、それぞれに与えたと伝えられている。稀少な大亀香合をふたつも所持したのは、そのためだったのかもしれない。
瑞獣とされる亀を象ったもう一つの香合はこの度の新装開館を寿いで再び出現したような気がしてならない。願わくは、新生藤田美術館でふたつの大亀香合が再会を果たして、仲良く陳列される光景をいずれ眼にする日が来ることを私は夢想する。
武者小路千家 第15代家元後嗣 千 宗屋さん(せん・そうおく)1975年京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。同大学大学院前期博士課程修了(中世日本絵画史)。2003年次期家元として後嗣号「宗屋」を襲名。同年大徳寺にて得度。隨縁斎の斎号を受ける。