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現代日本人は徳川家康が作った。日本人の気質の原型は三河人である

2023.04.25

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徳川家康の秘密 第7回(全26回) 東海道で結ばれる出世の道を巡りながら、人間・徳川家康の実像と、意外に知られていない現在の日本人と家康との関係に迫ります。前回の記事はこちら>>

[コラム]現代日本人は家康が作った。日本人の気質の原型は三河人である


世界中から評価が高い日本人の国民性。戦国時代から江戸時代にかけて、全国に散らばっていった三河人の気質と、徳川家康が泰平の世を築くために選んだ学問の賜物です。

日本人の気質の原型は三河人である

日本人の気質といえば、真面目、謙虚、我慢強い、勤勉、協調性がある──といったものが典型的。もちろん個人差はありますが、これが外国人の多くが抱いている日本人のイメージであり、美徳ともいえます。その原型は、三河人の気質と徳川家康の政策が合わさったことで形成されました。


戦国時代の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は全員、現在の愛知県生まれ。

信長と秀吉が尾張、家康が三河の出身です。同じ愛知県でも尾張と三河とでは気質が大きく異なり、一般的に尾張人は派手好きで独立心が強く、目的のためなら常識から外れることもいとわない、いわゆる「かぶき者」が多く、三河人は地味で我慢強く、協調性があり、質実剛健。隣り合う地にありながら、気質が対照的な理由の一つに、尾張が商業の国で、三河が農業の国だったことが挙げられます。

人間にはコントロール不能な自然が相手の農作業において、我慢強さや周囲との協調性は不可欠。日々の暮らしを通して養われていったのでしょう。

気質の分かれる3人の武将が天下統一を目指す中、それぞれの家臣団や子孫が各地へ散らばっていき、江戸時代には大名の約7割もが三河、尾張にゆかりのある者となりました。家康が天下を取ってから後は三河武士の勢いが増し、江戸から遠い東北や九州にも三河人気質が広まっていったのです。

徳川宗家19代当主の徳川家広さんは、「各藩の中核で行政を担ったのは三河人でしたから、『忠誠を尽くして真面目に働けば報われる社会』がこのときにでき上がったともいえます。その後260年間、日本人はよその国の富を奪うようなことは一切せず、労働によってのみ富を蓄えました。これは世界を見渡しても、稀有なことです」と話します。

もう一つ、日本人の気質の形成に大きな役割を果たしたのが、家康が官学(政府が正式に認めた学問)に定めた「朱子学」でした。下剋上が当たり前だった戦乱の世の名残で、反乱を企てる者も少なからずいた時代。信長や秀吉の失敗を間近で見てきた家康は、武力ではなく、学問を用いて秩序ある社会を作り、平和な時代を築こうと決めたのです。

朱子学とは、中国・南宋の儒学者、朱熹(しゅき)が大成した新しい儒学。基本となる思想は「君主と臣下、父と子は分別をわきまえ、秩序や礼節を重んじること」。国を統治する側にとって非常に都合のよいものでした。この思想がスムーズに浸透していったのは、幕府や藩の要職に就いていたのが、元来謙虚で礼儀正しい三河人、あるいは三河人気質を持つ人たちだったからに違いありません。

家康がもし、自分の死後400年以上経った令和の世で、日本人の気質が世界で一目置かれていることを知ったら、どんな顔をするでしょう? 目論見どおりと思い、ほくそえむでしょうか。

江戸期大名の約7割が三河・尾張ゆかり


日本人の気質の原型は三河人である

江戸300 藩の内訳
日本人の気質の原型は三河人である
※藩の数は諸説あり 出典/『名古屋の言い分』(長屋良行著・ゆいぽおと刊)より 関東入国直後の家康の家臣のおよそ75パーセントは三河出身者といわれ、有力家臣の多くが大名として幕末に至った。
取材・文/清水千佳子
『家庭画報』2023年5月号掲載。この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。
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