日本が誇る世界的指揮者に密着 佐渡 裕 情熱の音楽人生 第5回(全7回)1989年ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、鮮烈なプロデビューをしてから32年。その溢れる情熱、カリスマ性、人間力で世界への扉を開け続け、活躍の場を広げているマエストロのこれまで、今、そしてこれからの指揮者人生に迫ります。
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生まれ育ち、音楽を好きになり、音楽を学び、指揮者への夢を膨らませた京都。世界を飛び回る羽を束の間休めて、自らの原点に思いを巡らせる京都旅です。
京都生まれの佐渡さん。京都は地元でもあるし、京都に行く時は実家や親戚宅に泊まることが多いので、俵屋に入るのは初めて。坪庭の前で日本の風情に浸る。俵屋で振り返るバーンスタイン
佐渡さんが師事し、佐渡さんのその後の音楽活動に大きな影響を与えた指揮者のレナード・バーンスタイン。
京都の老舗旅館、俵屋の当主・佐藤 年さんの夫である写真家のアーネスト・サトウさんは、バーンスタインと深い親交がありました。バーンスタインとの日々を佐藤 年さんと俵屋で語ります。
ニューヨークフィルの常任指揮者を務め、その後世界中のファンの人気をカラヤンと二分したレナード・バーンスタイン(1918-1990年)。作曲家、ピアニストとしても活躍した。写真はバーンスタインと若き日の佐渡さん(1987年、ボストンのタングルウッド音楽祭にて)。バーンスタインは、全力で僕に教えようとした
佐藤さん(以下、佐藤) 佐渡さんはバーンスタインといつ頃ご一緒だったんですか。
佐渡さん(以下、佐渡) 最初バーンスタインの勧めもあってウィーンに渡り、そこで彼のアシスタントになりました。それから1年半くらいでバーンスタインは亡くなってしまうのですが。
佐藤 ではバーンスタインの本当に晩年ですね。
佐渡 そうです。体調がよくないというのは聞いたんですね。横でスタンバイしていてもしも倒れたらおまえが指揮するんだよと言われていました。
佐藤 バーンスタインを日本に最初に紹介したのがアーネスト・サトウなんです。それを彼は自慢にしていました。
佐渡 バーンスタインがアジアツアーの一環で初めて日本に来たのが1961年の4月から5月にかけてでしたね。副指揮者の小澤征爾が黛 敏郎の曲を指揮しました。その同じ月に僕は生まれたんです。
バーンスタインは50年代に子どもたち向けに『ヤング・ピープルズ・コンサート』というテレビ番組を始めたんですね。小澤先生や黛さんはそれを見て、日本でもそういう番組を作ろうとし、『オーケストラがやって来た』や『題名のない音楽会』ができた。それを見て育った僕が、まさか『題名のない音楽会』を引き継いで7年半やるとは思っていなかった。不思議な糸で繫がっているような気がしますね。