東京藝大で教わる西洋美術の見かた 第4回 『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』(世界文化社刊)から、泰西名画の魅力を紹介するシリーズ。第4回は、現在も論争が続く天才画家・カラヴァッジョの問題作を取り上げます。描かれた人物のうち、いったい誰がマタイなのでしょうか?
前回の記事はこちら>> 4.聖マタイのお召し
佐藤直樹(東京藝術大学准教授)図1 カラヴァッジョ《聖マタイのお召し》1599-1600年、油彩、カンヴァス、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂、ローマ誰がマタイか?
カラヴァッジョはバロック美術の先駆者であるだけでなく、後世に多大な影響を及ぼした天才の一人です。しかし、この画家は、その腕前で生前から有名であっただけでなく、悪名高い犯罪者でもありました。1571年の9月29日にミラノ近郊のカラヴァッジョで生まれたとされています。
1592年に単身ローマに到着するとジュゼッペ・チェーザリの工房で研鑽を積み、1594年に独立すると、1601年頃から素行不良が目立ち始めます。喧嘩、暴行、器物損壊、武器不法所持、公務執行妨害などの罪でしばしばローマのサンタンジェロ城の監獄に入れられ、犯罪記録に頻出するようになるのです。
こうした素行不良は、1600年に公開された初期の傑作《聖マタイのお召し》(上・図1)の成功によって、彼の名前が一躍有名となったことと関係しているでしょう。
注文が多く入り裕福になるにつれ、賭場や飲み屋を渡り歩いて、あちこちで問題を起こすようになったからです。1606年には、ついに賭けテニスの得点争いから殺人を犯してしまいました。死刑宣告を受けたカラヴァッジョは、南イタリアへ向けて逃亡します。
発見されたカラヴァッジョは、マルタ島で投獄されますが脱走に成功、逃亡先のトスカーナ地方ポルト・エルコレの真夏の海岸で灼熱の太陽に焼かれて熱病で死んだといいます。38歳でした。劇的な最後は、波瀾にみちた画家の人生を象徴するようです。
ローマでカラヴァッジョの名声を高めたのは、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂にある聖マタイの生涯を表した三部作(下・図2・3・4)です。
1599年から1602年にかけてフランス人マッテオ・コンタレッリの遺言に基づき描かれました。
とりわけ、《聖マタイのお召し》(上・図1)はカラヴァッジョの傑作中の傑作であり、現在も論争がつづく問題作です。
図2 カラヴァッジョ《聖マタイと天使》1602年、油彩、カンヴァス、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂、ローマ図3 カラヴァッジョ《聖マタイの殉教》1599-1600年、油彩、カンヴァス、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂、ローマ図4 サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂内部、ローマ、撮影:筆者、2010年カラヴァッジョは、教会堂の窓から差し込む現実の光の調和を考えて本作の光の効果を設定しています(上・図4)。これも、現実世界と絵画世界の境界を取り払う工夫のひとつです。
本作は、キリストの生涯における一事件を17世紀のローマに舞台を移して描いています。安酒場に見られるような机に派手な衣装の男たちが腰を掛けています。そこにみすぼらしい服装をした素足のイエスと聖ペテロが右から近づいてきます。腰掛ける三人の人物は、イエスがやってきたことに気づいていますが、左の二人の男は気づかずにじっとお金を勘定しているようです。
これは、徴税師であったマタイのもとにキリストが現れ「私に従いなさい」と言った瞬間(マタイ福音書9:9)です。
マタイはこれに従い、キリストのために大宴会を催し、それから何人かいた弟子の仲間に加わったと伝えられています。この物語を知らなくても我々が厳粛な気分になるのは、キリストの手招きするような仕草と、背後から差し込む超自然的な強い光の効果のためでしょう。
カラヴァッジョは、光がもつ象徴的な作用を利用することで、居酒屋の薄汚い光景を神聖な出来事の高みにまで引き上げたのです。