「ことばの世界」 ハードルが高い、入り口がつかめない……そんな印象を持たれがちな詩歌というジャンル。けれど、単純には割り切れない感情や思いをつかむ詩人、歌人のことばは、読者を遠くへと誘う力を秘めています。彼らは世界をどうとらえているのか。その作品と肉声を通じて、詩歌の魅力に迫ります。
小池昌代さんインタビュー(後編)はこちら>>> 1988年、第一詩集『水の町から歩き出して』を刊行して以来、多くの詩集、小説、エッセイ集などを発表してきた小池昌代さん。
古今東西の名詩41篇に補助となる解説を加え、読者を豊穣なことばの世界へと誘う詩のアンソロジー『通勤電車でよむ詩集』のはしがきで、小池さんは、この世の中には“詩の力”が働いていて、それは人間が生きるために必要な力であり、詩は生きることの前提として存在するものである、と記している。
かたちになる以前の“原始の詩”というべきものに、幼少期に出合って以来、今も詩に掴まれ、詩を渇望し続けている――そう語る小池さんは、詩のなかに流れる時間やその感覚、飛躍を許す詩の自由さといったことから、詩の魅力を話し出してくれた。
詩を書かず、
詩を書けず、
故に一冊の詩集も持たず、
たったひとり、
世界を見つめていた子どもの頃のわたし。
自分が除外されながら疎外感を覚えず、
老女たちの話に一心に耳を傾けていたわたしは、
孤独だったが少しもさびしくはなかった。
あの頃のわたしを、
小さな詩人と呼んでもいいような気がする。
(『幼年 水の町』「オパール」より)――近刊の『幼年 水の町』は、小池さんの幼年期の話ですが、読んでいるうちに、自分の子どもの頃のことがいろいろ思い浮かんできました。詩を書く人間は媒介者というのか、自分自身は透明な存在だけれど、詩を通じて介在することで誰かの記憶を引き出したいという気持ちを持っているので、そういわれると嬉しいですね。『水の町から歩きだして』から出発して30年。『幼年 水の町』を書いたことで、出発点に帰ってきたというか、ひと巡りした感じですが、最近、詩のなかで流れる時間について考えています。たとえば小説の場合、起点から終着点へと時間が線状に流れていきますけど、詩のなかの時間は螺旋状に巻き上がっていく感じのもので。生命科学の本を読んでいて、生命の源であるDNAも螺旋状の構造を持っていることを知ったのですが、私は何とかして生命力を伝えたい気持ちで詩を書くことが多いので、生命を表現する詩とDNAが、どちらも螺旋状というのはおもしろいことだと思いました。
――詩のなかに流れている時間は、日常の時間の流れとどこか違う気がします。詩は、飛躍が許されるもので、人間が書くものでありながら、人間の能力や領域をポーンと飛び超えられる瞬間があって。だからすごく自由で、ちょっと悪魔的なところもあるんです。
――たしかに読み手は詩に意味を求めてはいないですね。今、わたしたちは過剰な意味にがんじがらめにされていて、学校教育のなかでも、常に問いに対する答えを用意するように圧力をかけられているけれど、詩は答えのない「問い」そのもので、意味からの解放という側面があります。私は子どもの頃、よく飛ぶ夢を見ていたんですけど、飛ぶときの、あの自由さといったら、物凄いものがあって、これが夢なのか現実なのか、その境目すらわからないほどで(笑)。あの感覚は、まさに意味の世界から離脱することの快感だったかもしれません。精神分析では、飛ぶ夢には性的な意味合いがあるなどといわれますけど、地面をたーんっと蹴ったときの感触や空中に浮いたときの浮遊感は、理屈ではなく肉体の感覚としてありありと残っていて、それで、よく思ったんです。今はこんなことをしているけれど、私は本当は飛べるんだからって。そういう気持ち、今もどこかにあるんですね。詩を書くこと、飛ぶこと、性的な解放は私のなかで一緒くたになっていて、そういう意味では、私は今も、子ども時代を引きずっているのかもしれません。『通勤電車でよむ詩集』でも書きましたけど、見ているものの本質を掴んでいながらそれを口に出さない子どもたちは、みんな詩人といえると思うし、ことばを意識し始めたり、詩集を出す以前の自分こそ、たしかに詩人だったなと思います。