「ことばの世界」 ハードルが高い、入り口がつかめない……そんな印象を持たれがちな詩歌というジャンル。けれど、単純には割り切れない感情や思いをつかむ詩人、歌人のことばは、読者を遠くへと誘う力を秘めています。彼らは世界をどうとらえているのか。その作品と肉声を通じて、詩歌の魅力に迫ります。
バックナンバーを読む>>> 大学に入学する前後、詩を書き始めたときから一貫して自身の身体を見つめ、そこで感じたこと、発見したことを言語化してきた詩人の伊藤比呂美さん。
セックス、出産、子育て、年を重ねるなかで徐々に変化してゆく身体性、老いてゆく家族の介護、その過程で目の当たりにした身近な人たちの死……。そのときどき切実なことは違っても、現実のすべてを真正面からどーんと引き受けるそのスタンス、そこから表現が始まるという点で、伊藤さんの創作スタイルは一貫している。自ら道を切り拓いてきた伊藤さんが書く育児や介護についての話に多くの女性が共感し、人生相談したくなるのは、自然といえば自然なことだろう。
1997年にカリフォルニアに移住後、20年間、アメリカに拠点を置きつつ、ご両親の介護のために熊本とカリフォルニアを往復してきた伊藤さんだが、早稲田大学で詩を教えることになったのを機に、2018年の春、日本に帰国。今は熊本で暮らしながら、講義のために毎週、来京するという、これまでと変わらぬ移動の多い日々を送っている。
1978年に第一詩集を刊行以来、現代詩の最前線を走り続ける伊藤さんに、まずは詩と出合った頃のこと、フェミニストとくくられることに抵抗感を抱いていたという20代の頃のことから話をうかがった。
どんなこと書いたのってきかれたのよね毛のことってはじめていったわけよね毛のことって? ってまたきいてくるからさん、毛をね、抜いてきもちいーってこと、ってみんなこうゆうこと分かってくれないじゃないだからフツーの人にゆうみたいにいったのよね (『青梅』 「荒地野菊」より)――16歳のとき、中原中也の詩集を手に取ったことが、詩との出合いだったそうですね。それがまさにこの、河上徹太郎編の『中原中也詩集』だったんです。最初の頃は詩を読むというより、ことばを見ている、追いかけているという感じでしたけど、あるとき地下鉄で、この本に収録されている「秋」か「曇った秋」だったか、どちらも長い詩なんですけど――を読んでいて、“あっ”と、気づいて。何に気づいたのかよくわからないけれど、それまで読んでいた小説や散文は、ある文から次の文へ地続きになっている、つまりコミュニケーションを取るためには、人にわかるように文章を書くわけですけど、詩の場合、それがないんです。まず、行分けしているし、文章が飛んでも全然構わないし。
――コミュニケーションが前提ではないことばに惹かれたのでしょうか。いえ、これもやっぱりコミュニケーションで、ただ、詩は小説言語とは違うコミュニケーションなんです。たとえば有名な中也の「サーカス」という詩に、「幾時代かがありまして 今夜此処(ここ)での一(ひ)と盛(さか)り」とあるけど、これ、わからないでしょ? いきなりサーカスで、どうしてサーカスなのかわからないし、意味ないじゃないですか(笑)。それで飛んでいるような気がしたんですけど、読んでいるうちに、地続きでわかることばではない、別のコミュニケーションがある気がして、そういう世界に入っていきました。
――そして大学に通いながら、文学学校にも通われた。大学に入学する前後、ダイエットを始めたらやめられなくて、1年くらい摂食障害で地獄のような思いをしていたんです。食べる食べないということに疲れ果てて、何かしないといけない、たぶん書きたい気持ちがあったから文学学校に通い始めたんでしょうけど、今から考えても、あれはいい決断だったと思います。当時は成績も悪いし自分に自信はないし、人生に落ちぶれたみたいな気持ちになっていて、おまけに摂食障害で。文学学校に行くというのは人に会いに行くことで、コミュニケーションしたい気持ちがあったのでしょうけど、あのときその選択をした自分はえらかったな、と。前の世代の学生運動もすっかり終息して、私たちは三無主義といわれた世代なんですけど、何もないところにあったのが自分の身体で、それで身体のことを書き始めたんです。当時、私は毛を抜きまくっていて……
『青梅』(思潮社)。――詩人で映像作家の鈴木志郎康さんが『比呂美 毛を抜く話』を撮っていますね。最初の詩集では毛を抜く話ばかり書いて、今から考えれば当然そうなんですけど、それが自傷行為だとも気づかなくて。当時はなんとなくセックスやマスターベーションのことを書いていたんですけど、大学の先生に頼まれて英語の下訳を手伝ったとき、女性器や男性器を指すことばをストレートに書くようにいわれて、ああ、こういうふうに書けばいいのかと、そこでひとつ突き抜けました。その頃、先生が編集していた『フェミニスト』という雑誌で下働きをしていて、できた雑誌をウーマン・リブの会合している新宿辺りの小さな店に届けに行くと、“ちょっと、ここに座って”なんていわれて、そこで話を聞いて。
――でも、比呂美さん自身はイデオロギーに走るタイプではないですよね。学校でも政治に走る子がいたけど、私はノンポリで、そういう動きとは一線を画していました。彼女たちの会合は凄まじくて、まず、自分のことを話そうと、セックスの話をするんです。少し前に下訳を手伝っていた本がそういう話で、そこで何もわからないままみんなの話を聞きながら、いろいろ吸収していたのだと思います。ただ、丁稚から手代になることは考えず、自分の詩を書き続けていましたし、自分を規定したくなかったので、20代の頃はフェミニストといわれるのはすごく嫌でしたね。デビューした少し後、80年代は女性詩人といういい方をされたんですけど、女性詩って何なのよって腹が立って。
――たしかに男性詩人といういい方はしないですし。女性詩人と呼ぶなら、詩人といってもらいたいと、若くて尖っていたので、かなりいらぬ反発をしました(笑)。当時、私はすでに発表の場を持っていて、ガンガン詩を書いていたけれど、まだ手がかりが少なかったから、私みたいなことを口にできない女性の詩人は多かっただろうし、80年代に女性のための詩誌として『ラ・メール』が刊行されたのも、必要なことだったんだと思います。
世の中に切腹愛好家多しといえども、実際に生の切腹を見たことがある人はなかなかいないだろう。わたしはそのひとりなのだった。
そのことは「ハラキリ」という詩に書き、それは英語にも独語にも翻訳された。外国に行って朗読するときは、ついでに切腹を見た話もする。みんな喜ぶ。おおうっとか、きゃーとか言いながら、ぐろーすなどと口の中でつぶやいている。顔もしかめる。本当にいやなのかもしれないが、わたしは日本文化を代表して今ここにいるという意識があるので、つい身を乗り出して語る。(『切腹考』 「切腹考」より)