「ことばの世界」 “作品は、まったく何もないところから生まれるものではなく、先行する文学作品の影響をさまざまなかたちで受けながら書かれるもの”とは、多くの書き手が口にすること。作家が立ち返る場所としての大切な本、繰り返し読んでしまう再読の書を挙げてもらいます。
バックナンバーを読む>>> ウェーブのかかった長い髪、服は基本、黒の上下。向かい合って話をしているとき、相手をじっと見る射抜くような視線は、物事をなあなあに済ますことをきっぱりと拒むようで、少し緊張させられる。
けれど、こちらが的を射たことを口にできれば、一転、破顔一笑。朗読を聴いたことのある人なら周知のように、語りのことばの圧倒的な強さ、そして全身から醸されるオーラ……。伊藤さんにはシャーマンのような存在感がある。第一線で活躍する詩人の講義を受けたいと、伊藤さんの授業を取る学生にとって、詩人という現代の巫女のことばは、さぞかし刺激に満ちたものに違いない。
母に連れられて乗り物に乗りました乗り物に乗って降りました車に乗りバスに乗り飛行機に乗りましたそれからまたバスに乗り電車に乗り車に乗りましたそういう生活がずっとつづくと思っていました、ずっとつづくと思っていました、ある日とつぜんぱたりと止まりました、そのある日は、乗り物に乗っていた日々と区別のつかない日でありました、空港でいつものように外に出たら、母が笑いながら駆け寄った先に男がいました、男は母の顔にひげもじゃのまっくろな顔を押しつけ、母の口に舌をさしこみ、れろれろと舌をさしこみ、ぎゅうぎゅうと母の乳房や肩やお腹やお尻をだきしめました
母もちゅうちゅうと男の口を吸いました
(『河原荒草』 「母に連れられて荒れ地に住み着く」より)――2006年に高見順賞を受賞した『河原荒草』は、人間を凌駕する草木の生命力や移動する者たちのたくましさに圧倒される叙事詩でした。『河原荒草』はbased on the true story、事実に基づく話なんですよ。アメリカでは反政府の人たちが家族で引きこもって孤立して暮らしているケースが結構あるんですけど、アイオワのサンドクリークという町で、ある家族の父親が死んだ後、母親が逮捕されました。理由は児童虐待で、でも当局が子ども5人を保護しに行くと、子どもが犬を放し、銃を持って立てこもって。結局ひとりがそこから抜け出して、外にいる身内に連絡を取って、それで全員投降したんですけど。そういう事件が2000年前後にあって、それを小説に書こうとしていたんです。ちょうど『ラニーニャ』という小説を出した頃の話なんですけど、いろいろあって、小説から詩に戻ることにして。
――『ラニーニャ』も、野間文芸新人賞を受賞されています。でも、あのまま小説を書いていたら、つらいだろうと思ったんです。詩なら才能があるから何をやっても自分の表現になるけれど、小説の場合、枠にとらわれすぎて、キチキチになっていたような気がしますね。ともあれ、その事件を基に300枚くらいの小説を書いたときに、編集担当者が移動になり、自分も小説から詩に戻りたくなっていたので、『河原荒草』に全部投入しました。わりと小説仕立てになっているのはそういう理由からです。
――すごくストーリー性があって、子どもを連れてアメリカに移り住んだ比呂美さんを投影しながら読みました。ベースに説教節があったのはわかりました? 『新訳 説経節 小栗判官・しんとく丸・山椒太夫』という本も出していますけど、私は説教節にすごくこだわりがあって。『河原荒草』でも、小栗判官や『山椒大夫』の安寿と厨子王の関係、らい病の俊徳丸を連れてくる話などがベースにあって、とにかく90年代は現代の説教節を書きたいと思って仕事をしてきた感じです。
――『説教節』だけでなく、『般若心経』や『歎異抄』なども現代語訳、というか伊藤比呂美語訳されています。古典をご自身のことばに置き換えることは、作品にどんな影響をもたらしたのでしょうか。アメリカにいたせいもあると思うけど、ことばが本当にやせていってしまう、日本語を忘れてゆく危機感がかなりあって。それで日本語を読めるということもあってネット依存になっていましたけど、前の結婚生活でポーランドにいたときから、古典を読んでいたんです。当時はワルシャワ大学に寄贈された日本文学全集――ほとんど誰にも読まれていない、その全集を借りて読んでいました。
――日本語に飢えている状況と、日本にいて日本語を読むのとでは、ことばの入って来方が違いそうですね。そうですね。家では子どもとは日本語を使うけれど、彼女たちは日本語への依存が私よりだいぶ低いですし。ただ遠く離れた場所で、古典ばかり読んでいたので、コンテンポラリーへの興味がなくなってしまって、現代の作家の作品をほとんど読んでいないんです。大学で教えるようになって、読み始めてみるとおもしろくて、今、少しずつ現代作家の作品も読んでいるところです。