「ことばの世界」 “作品は、まったく何もないところから生まれるものではなく、先行する文学作品の影響をさまざまなかたちで受けながら書かれるもの”とは、多くの書き手が口にすること。作家が立ち返る場所としての大切な本、繰り返し読んでしまう再読の書を挙げてもらいます。
九螺ささらさんの前編>>> 文章は1行目でいい切りたいと断言するように、九螺さんは、書きことばだけでなく、話しことばも力強い。話を聞いていると、訓練とか修業ということばがよく出てくるし、気に留まったことはすぐに調べるという勉強家で、向かい合っていると、細部の細部まできっちりと自分のことばで伝えようという意思が、ご本人から滲み溢れてくるのがわかる。
パソコンだけでなく、テレビも持っていない九螺さんは、普段はNHKのラジオをずっと流しているという。暗闇に浮かぶスマートフォンの小さな画面に集中して、三十一文字や散文を打っている姿を想像して、なんてストイックなんだろうと思っていると、“動画でYouTubeはよく見ているし、エゴサーチもするし、一時期、松居一代にはまって、ずっとブログを追いかけていた”なんていう話もする。きっと九螺さんは、振幅の大きい人なのだろう。
逃げ水を追いかけていて途中から鏡に迷い込み一億年焼き菓子のための卵白泡立てて初冠雪のニュース聞いてる山椒は柑橘類であると知る両親はかつて恋人同士独房の我の裸体の窓である穴がだれかとつながる弥生魂の刺し身をきみにもてなして契っては消える命のじかん「たどり着くべき幸せは縁側で猫を撫でながら死ぬおばあちゃん」「ハープとはゆめのほとり鳥の化身です」余命二ヶ月の館長は言う『ゆめのほとり鳥』より ――訓練として投稿するに当たっては、どんな基準を設けたのでしょうか。投稿先として選んだのは閉じていない人、閉じていない場所です。人でいえば、穂村 弘さん、東 直子さん、あとは新聞歌壇ではトップと目される朝日歌壇などですね。朝日歌壇はファンも多く、反応が大きいいっぽう、すぐにディスられるので、自分がそういう矢に刺されても大丈夫か、試すつもりもありました。最初は少し傷つきましたけど、投稿を続けるなかで、それに負けずにいられる免疫力もついていったと思います。穂村さんには『短歌ください その二』で17首取っていただいていて、少し自信もついたところでの、日経歌壇への投稿でした。ご本人とお会いしたことはありませんが、取っていただいた歌や、それに対するコメントなどを読むことは、実際に会って話すよりも密度の濃いやりとりですし、歌を通じてのコミュニケーションだと思っています。
――穂村さんは、エッセイで提示される独自の視点、そのおもしろさで、短歌の世界の外の人にも人気がありますよね。穂村さんは、“現実を異化する”と話していましたけど、私は表現とは何かと聞かれたら、独自のフィルターをかけること、と答えます。作家は人とフィルターが違えば違うほど、強ければ強いほど、唯一無二感が出ます。草間彌生さんにとって、すべてはドットに見えることは作品を見ればわかるけれど、たとえ本人を目の前にしても、どのように見えているか、他者にはわかりません。作品を通して芸術家、表現者として認められない限り、そのフィルターは機能していないわけです。フィルターを芸術方向に持っていけるか否か、それはすごい分かれ道だと思っています。
――そこで表現者として在れるように、九螺さんは責任を負う覚悟をしているということですね。そうですね。母親からは少し前まで“普通にしていればよかったのに”といわれていましたし、そういう人だとわかっていので、彼女と会わない時期もありました。でも、今は誰よりも『神様の住所』のファンで、誰よりも読んでくれています。母親は、私の幸せを思ってそういったのでしょうけれど、自分がよいと思うことは、やはり自分にしかわからないものですから。
――アナグラム、オノマトペ、同音意義/異音同義のほか、専門的な用語や業界用語に別の角度から光を当てていると感じる歌も多いですが、辞書や事典はよく見るほうですか。何だろうと思ったことは、つねに電子辞書で調べますし、気になったことば、どう使うかわからないけれどおもしろいと思ったことばは、メールの保存ボックスに入れておきます。ライターの人は、こういうことばの保存の仕方を「倉庫に置く」というみたいですね。ずっと塾の講師をしているのですが、それも訓練のためでした。
――塾ではどの教科を教えているのですか。小・中学生は全教科、高校生は、数学は1年生まで、文系は受験科目すべてです。義務教育で学ぶことは、日本国民がシェアしている知識のインフラみたいなものだと思うので、それをひと通りおさらいして、確認したかったんです。
地図上の果樹園の記号その中に世界の電源ひとつ混じりぬ等高線をたどって同心円迷路バウムクーヘンの一部になる <9 地図> オブラートに粉薬を置きたたみける白夜の白衣の内科勤務医オブラートをまたオブラートで包んだらそこだけ角(かど)が取れてぼやける <44 オブラート> 何度寝て何を入れてもわたしとはたわしにならない固有のわたしきみというみずうみ我というみずうみきみから一グラムの滴をもらう <46 質量保存の法則>(『神様の住所』より) ――『神様の住所』は、ご自身が望んだように、短歌になじみのない人の共感を得たと思います。短歌界の人からは“あの人、勝手にやっちゃって”みたいに思われたかもしれません。別に個々が勝手にやってもいいはずなので、それはそれでいいし、ドゥマゴ文学賞をいただいたことで、風向きは変わった感じはあります。第一歌集の『ゆめのほとり鳥』は、東 直子さんに声をかけていただいて、最初、投稿で取っていただいたものを中心に300首ほど集めたんです。ただ、それをプリントして見たら、全然おもしろくなくて、ほとんど書き直しました。
――じゃあ、大半は新しい歌ですか。前につくったものも少しはありますけど。当時は毎週10首、投稿することを自分に課していたのですが、新聞歌壇は新聞という場、その枠のなかで、選者の方が歌を取るので、渾身の作よりも、“え、これを取るんだ”と、私にとっては意外な歌が取られていたこともあって、歌の印象が弱かったんです。『ゆめのほとり鳥』は、短歌だけど、まとめて読むと、小説みたいな印象が残ればいいなと思って編みました。
――「舟と浮力と」の章で詠んでいる歌は、官能的なものが多いですね。そうですね。浮力ということばが大好きで、このことばを使いたくて、舟と浮力、いいなと(笑)。書肆侃侃房さんから話をいただいて歌集をつくるとき、他の方と被らないように、まずタイトルをチェックしたのですが、短歌のテーマの王道ともいえる、夢、鳥ということばが使われていなかったので、これはいただきだな、と(笑)。自分でも、ゆめのほとりに鳥がいる、というのはよいイメージだと思っています。
――今、デジタル文芸誌『yom yom』で連載中の『きえもの』を読むと、器として必要とはいうものの、九螺さんは絶対に短歌で表現したい、というようには見えなくて、もっとフィクションに寄っているように感じます。肩書きは歌人と記されますけど、自分から歌人ですとはいっていませんし、私にとって、すべてはことばなんです。存在とは何か、今とは何か、その不思議さを、不思議だね、で終わらせるのではなく、同じ時間、空間を生きている人たちと共感したい。そのために、ことばを使っておもしろい作品をつくりたいんです。
――『ゆめのほとり鳥』には、著者からのメッセージとして手書きの挨拶のコピーが挿し込まれていましたが、やはりパソコンは必要ない感じですか。私の父親は、発売と同時に新製品を買うような家電好きで、私がものを書いていると知って、パソコンをプレゼントしてくれたことがあるのですが、パソコンを使うと手がすべるというか、頭のなかでことばがかみ合わない感じがしたんです。今の自分には、手のひらに載るスマホで書くのがちょうどよい感じです。振り返ると、私はけっこう構えて、肩肘を張りすぎて、なかなか書き始められなかったので、おもしろいと思うその延長上で、手を動かす感じで書くことが、今の自分には合っていると思っています。手元にスマホがなければ、紙にも書きますけど、字を書くのが早すぎて、2日後には自分が書いたものが読めないし、手書きのメモはどこに置いたかわからなくなってしまうんですよ。