「ことばの世界」 ハードルが高い、入り口がつかめない……そんな印象を持たれがちな詩歌というジャンル。けれど、単純には割り切れない感情や思いをつかむ詩人、歌人のことばは、読者を遠くへと誘う力を秘めています。彼らは世界をどうとらえているのか。その作品と肉声を通じて、詩歌の魅力に迫ります。
バックナンバーを読む>>> 日常の風景を見ていたはずなのに、ページを繰っていくうちに、どこかで何かが微妙にずれだし、気がつけば、知らないところへ連れ出されている。そんなふうに、ことばの力で読者を現実から離れた場所へといざなってくれる詩人の平田俊子さん。
“私自身、自分の想像を越えていきたい気持ちがつねにあるんです。今いる場所からどこまで遠く離れて、迷子になれるか。藪のなかに迷い込んでゆくのが私の詩の書き方だと思います”と、ご自身が話すように、詩、小説、エッセイを問わず、平田さんの作品は、ことば遊びを重ねながら、徐々に徐々にシュールなほうへと向かってゆく。
詩集『詩七日』、『戯れ言の自由』、エッセイ集『スバらしきバス』、『低反発枕草子』……ひねりの効いたタイトルからも、その気配を感じとることはできるだろう。
とかく難解ととらえられがちな現代詩にあって、読んでいてくすりとさせられ、世間の同調圧力などどこ吹く風と、飄々とわが道を行く――そんなユーモアと背中合わせにうっすらと不穏な気配をはらんだ作品世界は、どのように生み出されるものなのか。“先天的なひねくれものなんです”という平田さんに、生い立ちや引っ越しの多かった子どもの頃のことから、話をうかがった。
朝の電車はイラッとする足を踏まれてイラッとする背中を押されてイラッとするカバンがぶつかりイラッとする急ブレーキでイラッとする急発進でイラッとする舌打ちされてイラッとするくしゃみをされてイラッとする電話が鳴ってイラッとする傘が刺さってイラッとするいちゃつく男女にイラッとする 『戯れ言の自由』 「「イラッとする」にイラッとする」より鼻茸の恐さについて知る人は少ない。友人たちに この話をしたら皆 嘘だと云って笑った。あるいは私たちの種族にのみ伝わる病であろうか。ある日突然 鼻の中にぽつんとキノコが芽を出す。そして日を経るに従いキノコは生長し鼻の中を縦横にのびる。次に眼をねらう。涙腺をさけてのび、白眼黒眼を食いつくしぽっかりあいた眼窩からにょっきりキノコが顔を出す『ラッキョウの恩返し』 「鼻茸について」より左から・『詩七日』(思潮社)、『戯れ言の自由』(思潮社)。――詩でも散文でも、平田さんの書かれるものには、世間の同調圧力などどこ吹く風という、しなやかで強靭な個が通底しているように感じます。根がアマノジャクというか、ひねくれものなんです(笑)。私は逆子で、母親から“おまえは生まれたときからひねくれていた”とよくいわれました。母は隠岐島、父は福岡出身です。父が仕事で隠岐島に行ったとき母と出会って恋愛関係になったのですが、双方の親に結婚を反対されて、駆け落ちのように一緒になったようです。母の親は長女だった母親に島に残ってほしかったし、父の親は流人の島への差別感情があったらしくて。60年以上昔のことですからね。跡継ぎが生まれたら親も許してくれるだろうと期待したようですが、生まれたのは女の子だった。私の誕生は両親に喜ばれなかった。自分を否定する気持ちはずっとあったし、今もありますね。それと、幼稚園のときに左腕に大火傷をして伸びなくなって、太ももの皮膚の移植手術をしたんです。今はこうして話せるようになりましたけど、傷があることへの引け目や負い目は長くありました。
――『ブラック・ジャム』は、平田さんの体験をもとに小説化されていたのですね。小学生のときは、ケロイドを隠すために、夏は左腕に包帯を巻いて通学していました。包帯がずれてくるので、休み時間のたびにトイレで巻き直していたんですが、みんなにわかってしまい、男子にも女子にもひどいことばを投げつけられました。夏がくるたびにつらい思いをしました。こういう話はしんどいのであまり口にしませんでしたが、『ブラック・ジャム』を書いているとき、ふと書きたくなりました。
――そういう経験があると、早くから詩や文学に親しみを覚えたのではないでしょうか。誰かといるよりひとりでいるほうが楽でしたね。少なくとも傷つけられることはない。読書は私の安全地帯でした。