「ことばの世界」 ハードルが高い、入り口がつかめない……そんな印象を持たれがちな詩歌というジャンル。けれど、単純には割り切れない感情や思いをつかむ詩人、歌人のことばは、読者を遠くへと誘う力を秘めています。彼らは世界をどうとらえているのか。その作品と肉声を通じて、詩歌の魅力に迫ります。
バックナンバーを読む>>> 一つひとつ、選び抜かれたことばが醸しだす軽やかな、けれど、どこかひんやりとした気配。何とはなしに好ましい印象が残る歌から滲む、世界に対する緩やかな肯定感。
目の前にあることばに別の角度から光を当てることで、歌の強度や魅力を深めてゆく。服部真里子さんはそんなふうに歌をつくる歌人だ。
2006年に歴史と伝統のある早稲田短歌会に入会し、2012年に短歌研究新人賞次席を、2013年には歌壇賞を受賞。2014年に発表した『行け広野へと』で、日本歌人クラブ新人賞、現代歌人協会賞を受賞し、2018年に第2歌集『遠くの敵や硝子を』を刊行した服部さん。
短歌は手芸など、ものをつくる感覚に近いといい、“歌ができることと心の動きや感情に、直接的な関係はなくて。もちろん歌に喜びや哀しみが表れることはあるけれど、それは結果であって、創作の原動力ではないんです”と、“何を”よりも、“どのように”表現するかに重きを置いた、自身の作歌のスタイルについて話す。
高校時代に魅了された演劇を続けるつもりで入学した早稲田大学で学生短歌会と出合った服部さんは、創作の基本的なスタンスや、その楽しさを振り返るように、短歌について話してくれた。
三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死前髪へ縦にはさみを入れるときはるかな針葉樹林の翳り反故になる口約束はかがやいて犬が散らしている雪柳「雲雀 あるいは光の溺死」 駅前に立っている父 大きめの水玉のような気持ちで傍(そば)へ音もなく道に降る雪眼窩とは神の親指の痕だというね丈高きカサブランカを選び取るひとつの意志の形象として 「行け広野へと」 光にも質量があり一輪車ゆっくりあなたの方へ倒れるキング・オブ・キングス 死への歩みでも踵から金の砂をこぼして 「キング・オブ・キングス」 くだらないことであんまり笑うから服の小花の柄ぶれている感情を問えばわずかにうつむいてこの湖の深さなど言う「湖と引力」 『行け広野へと』より――服部さんはよく、歌をつくるモチベーションは名詞萌えだと、話していますよね。私の場合、親の死とか失恋とか、喜怒哀楽を揺さぶられることでは、短歌はできないんです。
感情を原動力にするというよりは、手芸のような、ものづくりに近いというか。石でも雑誌の切り抜きでもよいのですが、子どもが好きなものを集めて、“これ、きれいだよね”って見せる感じでことばを並べて歌をつくっています。並べ方によって、ひとつだけで置いてあったときには見えなかった美しさが見えてきたりしますから。
たとえばアクセサリーをつくる人は、この赤い色は情熱の赤で……と、意味を込めるよりも、この色と色の組み合わせはきれいだよね、この質感は素敵だよね、という感覚で、ものをつくっていると思うんです。もちろん、喜怒哀楽をもつ人間がものをつくれば、その人が経験した喜びや哀しみが表れるかもしれないけれど、それは結果であって、ものをつくる原動力は別のところにあると思っています。
――つくり手のなかにあるものは、自覚の有無にかかわらず、ふっと表に顔を出すのかもしれません。そういうことだと思います。結果的に表に出てしまうものがあるとしても、自分を表現しようと思って歌をつくることはないですし。表現しようというよりも、表現されてしまう、という感じでしょうか。
手芸に近いといいましたが、短歌は硝子や毛糸ではなく、ことばでつくられるものである以上、読む人はどうしてもそこに、ことばの美しさや遊びだけではなく、意味を求めたくなってしまうものです。私の場合、意味を限定することはないけれど、ことばを並べながら何か貫くものがあるように、意味から離れ過ぎないように、意味もまたことばの一部として一首にはたらきかけられるように、そのバランスを考えながら歌をつくっています。
――読む側としては、無意識を刺激されると、その歌が自分のどこかに引っかかって連想が広がる、連想が広がる歌には、歌としての強度があるのかなと思うのですが。そうですね。一方で、読んだときに広がる連想のすべてを理屈で説明されてしまったら、その歌はつまらない、価値がないものになってしまうかというと、そうではないと私は考えていて。そこが短歌の不思議さかなと思います。