フォン・メック夫人と交わした1220通の書簡
ロシア有数の鉄道王に嫁ぎ、後に未亡人となったナジェージダ・フォン・メック夫人。相続した遺産でチャイコフスキーを長年支援した。自らもピアノを弾き、音楽を愛した人生だった。©ロシア国立チャイコフスキーの家博物館。14年間一度も会うことなく、チャイコフスキーを経済的、精神的に支えた女性とは?チャイコフスキーが38歳から本格的に作曲に専念できるようになった背景には、フォン・メック夫人からの支援があります。
「チャイコフスキーにとってフォン・メック夫人は心の中を打ち明けられる親友、母親、そして時には彼の懺悔を聞く告解師的な存在でもありました」と語るのはデニス・フォン・メックさん。チャイコフスキーの姪とフォン・メック夫人の子息が結婚し、その末裔にあたります。
「夫人は何よりチャイコフスキーの音楽の奥深さに心惹かれ、彼が自由に創作の世界に浸れる環境を提供しようと考えました。彼女の書簡に『貴殿の音楽を聴いていると頭の中が真っ白になる』『魔法のような影響力を持っている』という表現が度々登場しますが、その音楽を際限なく生み出してほしいという思いに突き動かされたのだと思います」。
魂の親友にささげた音楽と打ち明けた本心
「交響曲第4番」を捧げられるも公的な献呈としては受けず、一歩引いた立場で支援を続けていたメック夫人ですが、本業での経済的損失や家族の不幸などが重なったためか、14年後に支援は打ち切りとなり、2人は音信不通になります。
しかし、その後、チャイコフスキーが姪アンナに「3年間もご無沙汰してしまっていることを大変申し訳なく思っている」との伝言を託すと、夫人は「チャイコフスキーに対する自分の気持ちは全く変わっていない」と大変喜んだそうです。
チャイコフスキーがそのことを友人に話したのは、亡くなる2週間前のことでした。
©ロシア国立チャイコフスキーの家博物館。フォン・メック夫人からチャイコフスキーへ最初の書簡
モスクワ1876年12月18日金曜日
「ピョートル・イリイチ様!
私のお願いに対するこのように迅速な対応を
心から感謝申し上げます。私があなたの曲を聴いてどれほど
有頂天になったのかを書くのは適切ではないと思います。
あなたはより立派な賛辞に慣れていらっしゃいますし、
私ほど音楽に無知な者が崇拝することを
おかしく感じられることでしょう。しかし私が感じている喜びを
大切にしていますので、笑われたくはありません。
申し上げたいのは、あなたの音楽との生活は、より楽しく、
より快適であるということ。それを信じていただきたいのです。
真の敬意と最も誠実な献身を受け入れてください」
(書簡翻訳/Natalia Goryacheva)1878年の書簡の一部。「交響曲第4番」の解説では、音楽的な考えやイメージを言葉で伝えるのは初めてで、不完全であることを認めつつ、「言葉が終わるところから音楽が始まる」と詩人ハイネの言葉も引用している。©ロシア国立チャイコフスキーの家博物館。チャイコフスキーからフォン・メック夫人への書簡(賛辞)
「貴いナジェージダ・フィラレートヴナ様、今日届いたお手紙は
なんという喜びに満ちているのでしょうか! 交響曲を気に入ってくださり、
またそれを聴いていらっしゃる間、私が作曲している時に心が一杯だった感覚を
感じ取ってくださり、私の音楽が御心に深く刻み込まれていることを知り、
私は言葉に尽くせないほど幸せです」(一部抜粋)
(書簡翻訳/Natalia Goryacheva)チャイコフスキーからフォン・メック夫人への書簡(「交響曲第4番」を解説)
序奏のファンファーレは“宿命”で、幸福の境地に達しようとする衝動を阻止する
打ち勝てない力です。第1テーマは陰鬱で絶望的な感情が増していきます。
現実から逃げて夢の中に身を投じたほうがよいのではないか……(楽譜)
第2テーマにはようやく心地よい夢が現れます。なんという幸福感でしょうか……(楽譜)
しかし、“宿命”が再び現れ、幻想から覚めてしまいます。
一生は辛い現実と永続せぬ夢、幻想的な幸福の絶え間ない交代なのです。(一部要約)
(書簡翻訳/Natalia Goryacheva)©ロシア国立チャイコフスキーの家博物館。二人の想い溢れる手紙を広めてチャイコフスキーとフォン・メック夫人の往復書簡集は、ロシアでは新全集とともに第5集が刊行。その全日本語訳を目指しているのが、文化や芸術へのメセナ事業として2020年設立された「日露チャイコフスキー・フォンメック協会」。ガリーナ・シズコ著『チャイコフスキー、その魂が歩んだ道』(電子書籍)を出版。オペラ『スペードの女王』自筆譜の最後の合唱部分。同作品は44日間という短期間で仕上げられた。©ロシア国立チャイコフスキーの家博物館。『スペードの女王』初演秘話
「チャイコフスキーの音楽はいつも真摯で、心の中を告白しているようです。帝室劇場から委嘱された『スペードの女王』にもこんな話が。主人公ヘルマンは賭け事の秘密を知る老伯爵夫人を脅して絶命させますが、その報いを受けて大敗。罪を悔い、愛を思い出しながら自死します。最後、彼の痛めつけられた魂に皆が祈りを捧げる合唱「神様、彼を赦してください」でヘルマンは赦されます。しかしチャイコフスキーの指示で、初演では赦しの合唱が削除されました。赦されぬまま亡くなるのです」(アダ・アインビンデルさん)。
自らの罪悪感からでしょうか。それは、フォン・メック夫人との文通が途絶えた数か月後のことでした。しかし再演時には元通りに。もう赦そう──。主人公の魂を再び救ったチャイコフスキーは、自らも赦し、愛情と感謝の念を再びメック夫人に伝えたのかもしれません。