徳川家康の秘密 第2回(全26回) 東海道で結ばれる出世の道を巡りながら、人間・徳川家康の実像と、意外に知られていない現在の日本人と家康との関係に迫ります。
前回の記事はこちら>> 徳川宗家19代当主・家広さんと訪ねる「家康、出世の道」
天下統一を果たす徳川家康の出世の大きな流れを居城で追えば、岡崎城→浜松城→駿府城→江戸城→駿府城となります。
艱難辛苦の中でその間を行き来することはあっても、この東海道から離れることはありませんでした。
今年、60年ぶりに徳川宗家の代替わりが行われ、19代を継承した徳川家広さんとともに、人間・徳川家康の実像に迫る出世の道を辿る旅に出かけました。
徳川家広さん(とくがわ・いえひろ)1965年東京都生まれ。徳川家康を始祖とする徳川宗家19代当主。2023年1月1日、60年間当主を務めた18代の父・恒孝さんから宗家を継承。徳川記念財団理事長、政治経済評論家。駿府(静岡)
「幼い頃に駿府に住んでいたため
故郷のように感じられ
忘れることができない。
冬は暖かで米の味が天下一品である」
――『廓山和尚供奉記』駿府城跡 巽櫓(たつみやぐら)家康は生涯で2度駿府に城を築いた。1度目は戦国時代末期に駿河や遠江などの5か国を治めるため、2度目は江戸時代初期、将軍職を退き、大御所となったとき。家広さんが背にしているのは江戸時代の巽櫓を復元したもの。●静岡市葵区駿府城公園1-1 ※巽櫓を含む有料施設は9時~16時30分(入館は16時まで) 月曜定休久能山東照宮
神様になった天下人に会いに行く
75歳で世を去る前、徳川家康は病床に側近を集めると、自らの葬儀などについて詳しく命じ、「国を守る鎮守(神)となろう」と告げました。
遺命に従い、遺体は久能山に埋葬され、その地に2代将軍秀忠が創建したのが久能山東照宮です。今年、徳川宗家19代当主となった徳川家広さんが拝殿の回廊に立った瞬間、雲間から光が差しました。
久能山東照宮江戸時代初期の技術と芸術の粋を集めた建造物として、2010(平成22)年に国宝に指定された社殿は、1617(元和3)年創建。本殿と拝殿を床の低い「石の間」がつなぐ権現造りで総漆塗り。大工棟梁を務めた中井正清は、家康に仕え、江戸城や駿府城の各天守も担当した人物だ。●静岡市駿河区根古屋390 TEL:054(237)2438家康が希求した平和と人生訓を表す絢爛豪華な装飾美
拝殿内部装飾拝殿内を彩るのは花や鳥などの優雅な絵や彫刻。長押(なげし)には楽器や蓮の花を手に11名の天女が舞う。写真の左上部のみあえて修復しておらず、400年前の職人の技を直接見ることができる。拝殿正面装飾金獅子と龍が待ち構える拝殿正面はひときわ鮮やか。久能山東照宮では50年ごとの神忌に合わせて大修復を実施。漆を塗り替え、往時の色を甦らせるとともに、伝統の技の継承もしている。東照宮とは、没後、朝廷から「東照大権現」の神号を贈られた徳川家康を祀る神社。現在、全国各地に約200社あるといわれる中で別格なのが、家康が埋葬された久能山東照宮と、一周忌の後、神となった家康を勧請(神仏の分身、分霊をほかの地に移して祀ること)した日光東照宮です。
どちらに遺体が安置されているかは謎とされていますが、そのことで両神社が対立するようなことはなく、良好な関係にあるといいます。
久能山東照宮は駿河湾に面した久能山山頂にあり、66年前にロープウェーができるまでは参道の石段1159段を上るのが唯一の参拝手段でした。今も神社に至る自動車道はなく、観光地化されていない、素朴で神聖な雰囲気があります。
境内で目にする夥しい数の彫刻や絵に共通するのは、平和への祈り。鉄が好物の神獣、獏は、鉄が刀や鉄砲などの武器になる戦時下では食べられる分が減るため、獏が元気な世は平和であると考えられています。
社殿に4つだけ描かれた「逆さ葵」は、完成したときから崩壊が始まるという考えのもと、「不完全な部分を残して、未完成のままにする」というおまじないのようなもの。現代にも通じる切実な思いが心に響きます。