「心に響くイタリアの絶景」第2回(全7回) 初めてイタリアを訪れたとき、だれもが衝撃を受けたのではないでしょうか。栄華を誇ったローマ帝国時代からの歴史的建造物、ルネサンス発祥の地ならではの芸術文化、ダイナミックな自然とそこに共存する小さな村と人々の営み……。一度目にしたら忘れられない、ふたたび訪れることを思い願う、イタリアのとっておきの“絶景”へご案内します。
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ヴェネチア
イタリア北東部に位置する、“水の都”と呼ばれるヴェネチア。100を超える島々があるが、中心部の運河には橋がかかり、徒歩で観光できる範囲のなかに、世界遺産に登録されているサン・マルコ大聖堂や、名画が収蔵されたドゥカーレ宮殿など見どころも多い。夕暮れから宵の初め、ゴンドラに乗り、水上から見る中世さながらの街並みは特にロマンティック。写真はサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会の外観。「イタリアで学んだ無理をしないという幸福」角田光代さん(小説家)
イタリアの旅でもっとも印象深いのは、ドロミテとヴェネチアだ。テレビの仕事で、私はガイドさんとともに四つの山をトレッキングした。一面雪の山を歩き、滝の裏側を見ながら歩き、野生の鹿を見、氷河を歩き、山の洞窟で第一次世界大戦の遺物を見つけ、切り立った山が夕焼けに染まるのを見た。山から山へと移動する本物の羊飼いに会い、アグリツーリズモの宿に泊まった。ひとり旅ではけっしていけない場所であり、できない体験だった。
ドロミテの山めぐりを終えてから、メストレに向かい、そこから船でヴェネチア市街にいった。むき出しの地球とでも言いたくなるような場所に慣れた目に、水路で囲まれたこの町は、うつくしいというより、ものすごく奇妙に映った。細い歩道のようにくねくねと水路が広がり、ところどころで船は渋滞している。見たことのない水路の町は、山から下りてきた私の目には、不安定で心細く思えた。町も不思議だ。細い路地を歩いていくと、人でごった返すサン・マルコ広場が広がっている。周辺にはきらびやかなレストランやジェラートショップやみやげもの屋が軒を連ねている。そこではだれもが心底たのしそうに歩き、レストランのテラス席でビールを飲み食事をしている。
ヴェネチアはうつくしいところなのだと知ったのは、夜も更けた帰り道だ。店々の明かりが消え、歩道のライトが、レンガ敷きの歩道と水路を浮かび上がらせ、宙に浮かんだ町を歩いているようだった。山とは異なる都会だが、ここもやはり自然に即したうつくしさだと思った。
イタリアは、どこを旅するかによって印象が異なるが、共通しているのは、食べものがおいしいことと、そこで暮らすごくふつうの人々が、じつにたのしそうなところだ。旅先で、いろんな人に話を聞いてその理由はなんとなくわかった。人生に、あるいは生活に、気負いがないのだ。「山が好きだから山の暮らしに戻った」「自由が好きでこの仕事を選んだ」「野菜を育てるのが好きだからスローフードの暮らしだけれど、ファストフードもおいしいよね」という感じ。彼らのいう「好き」は、「自分に無理を強いる必要がない」ということなのだと学んだ。無理せず生きることは、こんなにもたのしいことなのだと学んだ。
イタリアには、再訪したい町も、いってみたい未知の町も、まだまだたくさんある。心置きなく旅ができる日が一日も早くくることを願っている。
角田 光代(小説家)1967年神奈川県生まれ。90年海燕新人文学賞受賞、2001年『対岸の彼女』にて直木賞受賞。代表作に『八日目の蝉』、『紙の月』など。近著に『源氏物語 上中下』(河出書房新社刊)、『物語の海を泳いで』(小学館刊)など。
撮影/武田正彦
『家庭画報』2020年11月号掲載。
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