Vol.1 ジャズ喫茶とクルマと芸術と。60年代TOKYOで生涯の友に出会う
「教会の跡地に大きなファッションビルができるんだ。そこに出店してみない?」
1970年代半ば、ブランド名を登記することもまだのタイミングで、そんな大きな話が持ち込まれ、私たちのブランドは「ラフォーレ原宿」に1号店を開いた。こんなことになるなんて、初めて東京に出てきたときは、想像もしていなかった―――。
「ラフォーレ原宿」オープン前日、開店準備を無事に済ませたマルエイのスタッフと笑顔の1枚。左から3番目のエプロン姿が万里子。女性も颯爽と前へ進む新しい価値観を求めて
「私が念願の上京を果たしたのは20歳の春。桑沢デザイン研究所で学ぶことになり、奥沢の牧師さん宅の離れで暮らし始めました。たくさんの課題に加え、担任の先生に紹介されたデザインのアルバイトに追われる日々だったけれど、彫刻家の佐藤忠良先生に直接デッサンの手ほどきを受けたり、舞台美術家の朝倉 摂先生の講義にとても感銘を受けました。カルチャーショックと言ってもおおげさではありません」
北海道の良家のお嬢さんだった万里子は、厳格な祖父に「女性は1歩さがっていること」、「大きな声で笑うなんてはしたない」と、戦前の価値観を美徳として躾けられてきた。
東京で自由かつ刺激的なデザインの世界に触れ、自分らしさを発揮し始めた万里子は、憩いの時間に麻布のBARやイタリアンレストランへと足を延ばす。中でもマリという名前のママが仕切る霞町のBARが居心地よくて、学生の日々を終えて就職した後も通いつめた。万里子専用のお茶碗と箸が、「いつ来てもすぐ出せるようにね」と揃えられていたほど。放送局関係者や茶道石州流の先生ら、自分の適性を仕事に生かせている人の出入りが多く、スポーツカーの所有率も高かった。万里子が車の魅力に開眼したのも、この霞町のBARに集まる人々の影響であった。
名だたるアーティストたちもまだ“自称芸術家”だったあの頃
余裕のある人が多かった六本木とは趣を異にする“新宿カルチャー”が台頭してきたことは、彫金に携わる男友達の“泉ちゃん”経由で知ることになる。
「新宿の『風月堂』に初めて一緒に行ったときには、退廃的なムードに驚いちゃってね。人形作家の四谷シモンさんも回想記のようなもので語っていたけれど、煙草の白い煙で中が見えないほどなんだもの。風月堂のほか『Ki-YO(キーヨ)』や『ピットイン』などのジャズ喫茶が新宿にはたくさんあって、ヒッピー文化に影響を受けた自由な精神の“自称芸術家”が、情報を求めて集まっていた。才能はあるけれど、まだ発揮する場所を掴めていない人たち。SNSがない時代だから、彼らは自分の才能をどこへ向かって出すべきなのか、こういうお店の中でのやりとりから探っていたんでしょう」
100人の芸術家に機会を与えた「新宿アートフェスティヴァル」
東京オリンピックが開催される前年の1963年12月に「新宿アートフェスティヴァル」がアートシアター新宿で開催されるらしいという話が聞こえてきたのは、1962年のこと。その企画運営をまとめていたのが、後に生涯の友となるトクこと石山 篤を中心とした面々だった。
開催は23時から朝の4時までというオールナイトスタイルを2晩。すべてが画期的だった。東京藝大の卒業制作が大学のお買い上げになったトクは、それを元手に「ブードゥー」というジャズ喫茶を代々木にオープン。センスと実行力の伴った人物だ。新宿の他店のように前衛的な曲を大音量でかけるのとは一線を画し、もう少し明るい雰囲気の店で、芸術家だけでなく文化人や芸能人も訪れた。
感受性の強い芸術家の卵たちは当時、ベトナム戦争に反対するヒッピー文化のスピリットも心の内に抱いていた。前衛的で焦燥感を表出したパフォーマンスを中心に、新宿アートフェスティヴァルのラインナップは多岐にわたった。トク達が企画したアートフェスティヴァルは芸術家や劇団天井桟敷の女優、のちに黒澤 明監督の美術セットを支えていく映画人なども参加し大盛況の成功を収めるが、万里子はパフォーマンスそのものよりもむしろ、トク達が発揮する「チームで企画する力」や「もの作りにおける人と人の関わり方」のほうに関心を抱く。
“自分は芸術家やファッションデザイナーになりたいわけではないんだ。プロデュースやディレクションに喜びを感じる側の人間だ”――こう確信していくことになる。
女性2人がラリーレースのドライバーに!?
トクの周りにはユニークな人が自然と集まっていた。『女性自身』の創刊に携わり、流行作家たちのインタビュー記事で活躍していたラッコ(高宮知子)もそのひとり。ラッコと万里子はとても気が合って、スポーツカーを乗り回すラリーチーム「ZOO」を結成する。
他チームは男性ドライバーが多いなか、万里子は愛車のニッサン510ラリーチューンで参加。 「と、言ってもね、仲間うちで車を所持していたのは私とラッコの2人だけ(笑)。ジャズ喫茶でわいわい仲良くしている皆もラリーに参加したいのに、なんせ車は2台しかない。知恵を絞って、助手席のナビゲーターに加えて後部座席に“回答者”を乗せて、問題を正解しないと先へ進めないルールのラリー企画にしたわけ。そうすれば参加できる人数がぐんと増えて楽しめるでしょう?」
JMCは当時、アイディアあふれるクイズ付きレースをはじめ、多様なラリーを展開していた。万里子の颯爽とした行動力や周囲の誰をもハッピーにする発想力、そのスケールの大きさから、いつしか万里子は「デカマリ」と呼ばれて慕われるようになる。世代的にマリやマリコという名前はとても多く、苗字の一部をくっつけて、例えば“サトマリ”だとか“スズマリ”と呼ばれているマリちゃんはたくさんいた。一風変わった“デカマリ”の愛称に頼りがいのある万里子のパーソナリティが浮かび上がってくる。
さて、ラリーに同乗する者を決める方法は、シンプルにじゃんけんが採用された。万里子の横にナビゲーターとして座ることになったのは、ラッコと仕事でコンビを組んでいたカメラマンのリカルド(渡邊 勇)。
数年後に万里子の夫となる人なのだから、運命というのは面白い。気になるこの続きは、連載の次回に。