Vol.2 原宿カルチャーの黎明期 2つの才能がタッグを組むまで
快活で行動力のある、ヒッピーライクな男との出会い
「彼はお父さまが当時、築地にあった松竹写真部の責任者だったこともあり、学生時代から歌舞伎や新派、明治座、そして浅草国際劇場の舞台写真と役者のブロマイド製作をこなしていた人。新宿のジャズ喫茶に集う面々の中で、カメラマンの仕事に就いているというのは珍しい存在でした」
若かりし頃の渡邊 勇(リカルド)。後に誕生する「ヤッコマリカルド」は、ヤッコ+マリ+リカルドの3名のニックネームを合わせて命名されることになるのだが、その一翼を担ってゆくリカルドこと渡邊 勇の若き日のことを万里子はそう回想する。
友人であるトク(石山 篤)が営んでいた伝説のジャズ喫茶「ブードゥー」には、三島由紀夫や、俳優の近藤正臣、江波杏子、山谷初男、「屋根の上のバイオリン弾き」の初代バイオリン弾きを務めた竹邑 類、落語家の古今亭志ん朝、グラフィックデザイナーのシノピン、そしてカメラマンの菊池 満と多彩な顔ぶれが夜ごと集っていた。万里子にとってリカルドの存在は、そんな顔ぶれの中にあってもちょっと特別に輝いて見えた。
小学生の頃から父親のカメラに親しんできたリカルドは、日本大学芸術学部写真学科に入学。沢渡 朔や篠山紀信が同級だった。大学の授業に興味を抱けなかったリカルドは、雑誌のアルバイトで被写体を追っていた。
大学同期の仲間とともに。左下がリカルド、中央が沢渡 朔、右下が菊池 満。創刊されたばかりの『女性自身』で、ライターのラッコ(高宮知子)とコンビを組み、三島由紀夫や石原慎太郎、吉屋信子ら人気作家の写真を撮る連載もその一つ。広告代理店のカメラマン、日本赤十字社の全国献血運動のボランティアカメラマンとしての撮影でも領域を広げていく。
24歳の時には、東京オリンピックで「五輪の名花」と呼ばれて注目された体操のチャスラフスカ選手をチェコスロバキアの通信社の特派カメラマンとして撮影。『女性セブン』では当時の皇太子の花嫁候補を追ったりもした。万里子が出会った頃のリカルドは、英国好きの父に授けられた教育によって洗練された物腰をもちながらも、ヒッピーライクに過ごしていた。
リカルドは新宿アートフェスティヴァル終了後、企画やプロデュースにも興味を持つようになり、当時話題をさらった浜野安宏のゴーゴークラブ「赤坂MUGEN」と同時期に、友人の宮井陸郎とともにニューヨークのディスコの最新映像システムを持ったゴーゴークラブを盛岡と福島に立ち上げた。後に仲人になる青木慎二氏の依頼で宇野亜喜良とキチ坊(市田喜一)に壁画を依頼して完成させたBAR「新宿パニック」などの、時代を牽引する店も作った。新しいコンセプトを語り、人々を惹き込んでいく“プレゼン能力”にリカルドは長けていた。
「ナウ」での語らいは新しい企画の宝庫
時を同じくして、「ブードゥー」の仲間だったジュン(須田和順)が原宿に「ナウ」というギャラリー喫茶をオープン。1969年のことだった。そして「ナウ」がイベントの企画を考える新たな拠点となっていく。新宿の時代が終わり、まさに原宿にカルチャーが拓かれていく。
万里子とリカルド、ラッコはもちろんのこと、GKデザインのトク、コピーライターのガオ、彫刻家のキチ坊、俳優の二瓶正也や天井桟敷の青目海といった表現者達に、テレビ業界の河野ディレクター、後にファッションブランド「イタリヤ」をつくる菊池英雄といった企業に属する者も交えた「ナウ」での語らい。いくつもの斬新な企画がここから生まれ、世間を驚かせた。思いつく人、形にする人、営利にきちんと繋げる人。不思議と連携がうまくとれて、各自の実績も同時に築かれていく。
「ナウ」同様、よく集まっていたバー「あじのたたき」での1ショット。右下の白いレースの襟の服を着ているのが万里子、画面左側のベストを着ているのがリカルド。自由なアイディアをとめどなく語り合った。「みんなでワイワイと企画を膨らませているときに、誰もお金のことを気にしていなくて、気がつくと『計算するのはデカマリでよろしく』ということになっていました。仲間うちでは私が最も早く経済的に自立し安定していた、という背景もあったからだと思います。札幌の三越百貨店に勤めていたこともあるし、桑沢で学んだ後は三井炭鉱トラベルという会社で旅行の企画に携わり、アーティスト達とは異なる視点の経験や蓄積もありました。そして、これは天性のものかもしれませんが、時代のニーズだとかマーケットの動向を察知する勘も、なぜか私には備わっていたように思います」
活動的で目標を見定めたら突き進んでいく性格の万里子。仲間との企画を共にしながらも、自らのファッションビジネスを立ち上げることは視野に入れていた。「ナウ」に集う面々も次第に第一線での仕事を認められて、多忙に拍車をかけていく。70年代なかばには、メンバーも皆、それぞれの場所で役職を得て安定していったという。
自由なウエディングスタイルの先駆けに
発想豊かなリカルドと、マネジメント力のある万里子――、個性の異なる2人だが、ラリー競技をきっかけに意気投合。スピードを競う運転は万里子、助手席でのナビゲーターをリカルドが務めたラリーだ。万里子は当時、女性の立場が完全に開放されている世の中だとは感じられずにいて、心の内で常に闘っているようなところがあったのだが、リベラルなリカルドと一緒にいると自由でいられた。
ニューヨークで活躍していたフォトグラファー、岡本ナオキが撮影。半世紀前とは思えないモード感。ナウの仲間たちそれぞれに、時代が大きくうねり始めた1971年。万里子とリカルドは赤羽カトリック教会で結婚式を挙げた。「彼に1万円の予算で衣装をすべて揃えて、と言われちゃってね。靴や手袋まで込みの1万円で素敵にスタイリングしましたよ。でもね、驚いたことに当のリカルドはグレーの三つ揃いでキメていたの。かつてお父さまに仕立ててもらった『銀座テーラー』のオーダーメードで(笑)」。
万里子のほうはリカルドのグレーとも絶妙に調和する、無垢で何色にも染まる白に、品のよいピンクをコーディネートした“意思あるスタイル”だ。この先2人が築いていく、ワイエムファッション研究所の自由なパイオニア精神を予兆するかのように。
デカマリ33歳、リカルド31歳の冬だった。