Vol.7 デカマリのまわりに“愉快な仲間”が集まる理由
心弾ませる優しく美しいカラーバリエーションは創立当初も今もブランドの強み。万里子とヤッコ、2人の姿を載せたラフォーレ出店時のダイレクトメールより。すぱっと先を見通した決断を下し、未踏の道もズンズン進んでいく万里子だが、頭のキレの良さとは裏腹に(?) 人当たりは柔らか。どこか大らかで、個性の強いアーティスト気質の人々をふわりと包み込んでしまうところがある。
思えば新宿アートフェスティヴァルだったり、ブードゥー、ナウに集う面々もかなりの個性派揃い。そんな彼らに“デカマリ”と慕われるほどのコミュニケーション能力は、自分の会社を立ち上げてますます発揮され、フルに周囲に頼られることとなる。
「『ヤッコマリカルド』がラフォーレ原宿での売り上げNo.1を達成し、時代がバブルにさしかかったこともあり、飛ぶように売れて生産が追いつかないという状態に拍車が掛かりました。私たちに限らず、ラフォーレに入っているブランドはどこも、あの時期は生産工場の確保に必死だったはずです。各地の工場の奪い合いとでもいうのでしょうか。新たな工場の開拓と交渉、そしてまた交渉と、とにかく出張で日本中を飛び回りました」
卸売り先への営業はヤッコが担当してくれていたが、リサーチや取引の交渉を要する際は万里子も同席して丸く収めていく。身体が2つ欲しいくらいの忙しさだ。
染色の研究、そしてデザインやパターンを引くことも万里子は大好きな作業なのだけれど、不在時にスタッフにも任せられるように、人材を育てる必要に迫られた。
パターンの重要性に心を砕く
ラフォーレでも人気だったシャツ(品番8097、9087、9094など)は、シンプルながらもディテールに気が利いていて、格好良く着こなせると評判だった。デザイン力のみならず、万里子もヤッコもパターン技術にすこぶる秀でていたのだ。
左から8097、9087、9094の定番シャツ。「“定番”の中で遊んでごらん、と若いデザイナーやパタンナーたちによく声をかけました。シャツのカフスをなくして楽に着こなせるもの、後ろ身頃にポケットをあしらったものなど、楽しく着られる進化系がどんどん形になりましたね。それと同時に、立体裁断に特化した学校へ若いパタンナーたちを通わせたんです。学ぶことはとても大切だと考えました」
若手スタッフも特許登録の実績をあげて大健闘
やがて万里子は専門学校での講義を依頼され、たびたび教壇に立つこととなった。しかし会社はますます拡大し、1988年頃から国内のみならず海外への出張も増加。代わりにリカルドが講義を受け持つように。巣鴨の池田学園でリカルドがファッションビジネスを講義していたときのユニークな“教え子”、池田君(池田竹谷)をワイエムファッション研究所へ迎えることとなる。
手前が池田君。鏡の前で製作途中のアイテムを試着しつつ細かなチェックを入れているヤッコの姿も。「池田君はとても身体が大きくて、独自の感性もあったのでしょう、なんと布地幅の型紙用紙の上に自らの身体を横たえてパターンを引いていた、と言うんですね。その話を聞いて皆は度肝を抜かれて思わず笑いましたが、私はその方法もアリだな、と閃いたんです」と万里子は振り返る。
実は当の万里子もかつて、似たような服を自分の好きな生地で作って着ていたのだ。立体裁断とは別のアプローチではあるが、その方向から商品化したものを加えてみるのも「面白そう!」と閃いた。万里子とヤッコ、そして昼間に仕事をしているのを見たことがないほどの夜型人間だがデザインセンスに長けたチヨさん(田中千代)を交え、精鋭チームで意見を出しながら形にしていく。
「一枚着衣」には次々に“進化系”のバリエーションも生まれた。派生した数々を、インタビューに際してデカマリが描いてくれたデザイン画。布地の真ん中に首を出す穴を設けたプリミティブなパターンを、お洒落に進化させた「一枚着衣」の誕生となった。布幅いっぱいに型をとれる“布地を無駄にしない”物づくりという点でも、ワイエムファッション研究所らしい“筋”がスッと通った。
2006~2008年頃に撮影した一枚着衣の進化系。生地に首と手を通す穴を空けてトップスを作り、残り布をスカートやストールに活用。1枚の生地を無駄なく使い切った。デイリーはもちろん、パーティにも着られる服として人気に。「布地によってカジュアルにも華やかにもバリエーションを増やせる優れモノで、パーティで着る方もいましたね。制作プロセスでも、形になってからも会話を弾ませる“カンバセ-ションピース”として魅力的な服だったと思います」。
これは特許登録もきちんと行い、長く愛されるウェアとなっている。
セールを開催せずとも、優良決算できる強み
ヤッコマリカルドには、時代を超越して愛されるデザインがたくさんある。
「私たちは、何十年もセールを行わないでブランドを運営してきました。そのシーズン中に売り切ってしまわないと困る、そんな在庫を抱え持たない工夫があるのです」と万里子は微笑む。“白在庫”の存在だ。文字どおり“白い在庫”、色を染めずに先に縫い上げてしまうストックのことである。
服飾産業というのは、繊維から製品になるまでに驚くほど長い期間を要する世界。業界用語では長い川にたとえて、川上(繊維素材をつくる業種)、川中(製品を作るアパレルやメーカー)、川下(百貨店やブティックなどの販売業種)と呼んだりするのだが、実は、流行を作るのは川上の生地屋だともいわれている。
製品化を担うメーカーでは、染色・縫製・加工の各工程で多くの取引先を持ち、企画を始動させても収入にはすぐに繋がらない。その間の支払いは手形が使われるのが常だった。
この大変な状況を見て、万里子は「だったら自社の中に“仕組み”を作ってしまおう」と考えたわけである。“生地の研究”にこだわったのもそのためだ。
セール用品は作らない、余分も出さない、在庫を抱え込まずに回していくには“白のまま”で置くほうがよい、という考えのもと、“白在庫”方式へと踏み切った。
これなら、次のシーズンでは新たに心を惹く色に染めて「新作」として出せる。パーフェクトなパターンを引けるという強みを持つゆえの戦法ともいえる。先に縫い上げておいて染めるには、色によって布地が縮む率が変わるといった難問に対応できる技術も備えていなければならないので、他社ではなかなか真似できないスタイルだろう。
似合う色、着たい色が必ず見つかるヤッコマリカルドの色展開。バブル期に“売れるのに工場が足りない”事態を切り抜けるため、縫製工程をシンプルにまとめたかったという背景もあったが、すべてをうまくクリアする経営を万里子は打ち立てた。
「自分が不在であっても回っていく組織に成長させたかった――」。
個性のある人々を信じて、そこから才能を引き出し、揺るぎない経営を構築した万里子。
それにしても、万里子のまわりに面白い人々ばかりが集まるのはなぜなのか?
「もちろん私もビックリはします、心の中で。でもね、北海道の実家から上京する日に私は心に誓ったの。どんな人と出会っても否定しない。その人が持つ可能性を見出して、とことんお付き合いしてみよう、人から学ぶのだ、と」。
北海道時代の万里子についても、いつかまた後々の連載で触れますので、どうぞお楽しみに!