Vol.11 異国でもお客さまが絶えないお店
「バンコクのスクンビットのような繁華街で、“あれ?さっきも見た気がするけれど……”と近いエリアに同じブランドのお店がいくつもあるなぁと思ったことはありませんか? タイ、それもバンコクという街は観光で成り立っているような面があるので、メインストリートでお買い物をするのは観光客。滞在中の限られた時間、それも観光の合間の短いショッピングタイムにパッと目にとめてもらうには、中心地に複数店舗を構えることが大切だ、と地元の人は言うんです。私たちヤッコマリカルドのブティックもそのようにお店を出店しました」
洗練された店構えに目がとまるタイ・セントラルワールドのヤッコマリカルド。2006年、セントラルワールド店オープニングパーティにて。左端がリカルド、左から3番目がプラー、そして万里子。右から4番目がヤッコ。タイに設立した自社工場が、地域に愛されてきたことは
前回お話したとおり。生産の場として根差すだけでなく、お店を開くことに乗り出す段階になると、別の視点も必要となってくるというもの。お店の場所や数もさることながら、各国から訪れる観光客が相手となると、サイズや好みをどう読むかが肝要だ。
もともとヤッコマリカルドの服はフリーサイズであったこと、天然素材を用いた美しい染め色を特徴としていることなどが大きな強みになって、人種や国境を超えてファンを増やす結果に結びついた。自家用ジェット族の目にとまり、タイのブティックはおおいに繁盛したのである。
ダイアナ元妃のお散歩エリアでも
タイと同時進行でヨーロッパ進出も進めていた万里子。友人ヘルガのドイツの実家が営んでいたブッチャー(肉屋)を改装して、まずはヨーロッパでの卸売り第1号店をオープンさせた。続いて、子どもたちが英国留学していたこともあり土地勘のあったロンドンに1998年『ヤッコマリカルド』の路面店オープンを果たす。上流層の多いケンジントンに、である。
「ご存命だった頃、ダイアナ元妃がよくワンちゃんをお散歩させていらしたというチャーチストリートはとても素敵な雰囲気で、お店を出すならこんな場所がよいなぁと思っていたのです。大好きで渡英のたびに覗いていた有名な老舗の家具店が売りに出ていることを知り、つてを頼って猛アタックしました」
さすがのビジネスアンテナと行動力! ケンジントンのヤッコマリカルドはアラブ諸国の富豪がよく訪れるブティックとなったのだから。ホテルやロンドンの邸宅からお買い物に来る彼女たちは“この時間はお店を貸し切りにしてね”とアポイントを求めてくるが、その分、本当にたくさんまとめ買いをしてくれる“うれしいお客さま”だった。
ケンジントンパレスに近く、各国大使館なども多いチャーチストリートに構えたロンドン1号店。2000年にはコヴェントガーデンに期間限定店舗もオープン。“シャツに特化した展開”で心を掴む
よい場所にブティックを構えたからというだけで、大成功するほど世の中は甘くない。トップ・オブ・ザ・トップの高級エリアには、目の肥えた人が集まるのが常。万里子は“潔い”戦略に打って出た。
「アイテムを絞ったのです。英国の寒さは日本とはまったく違う。コートやパンツは、素材を含め“防寒性”が足りないと感じられてしまったならアウト、全く受け入れられなくなるリスクがあると思ったんです。シャツ中心でいく、と心を決めると経営的な利点も多く見えてきました」
仕立てがよくピンタックのディテールも美しいシャツ。豊富なバリエーションに心奪われ、まとめ買いする人も多数。アウターやボトムスを控えれば、各国から訪れる人の体格差を網羅するサイズ展開も不要。シャツ中心ならフリーサイズだけのラインナップに無理を感じさせないというわけだ。デザインを学んでいた頃の先輩に、パリのシャツ専門店に連れていってもらったことがあり「“上質な専門店”という経営法もあるんだなぁ」と記憶していたこともヒントになった。不要な在庫を出さない経営哲学は、海外進出の際にも見事に貫かれている。
最強のプロフェッショナルを味方に
バンコク、ロンドン、東京をくるくると回っていた90年代、万里子のパスポートはどのページも出入国スタンプで埋め尽くされていた。本人が飛び回るのみならず、タイ工場での試作サンプルは日本との間を何往復もするプロセスを踏むし、ロンドンのブティックに置く服はタイから送ることになる。工場の設備もブティックの什器も……、税関を通す作業はすべての仕事に不可欠だった。
当時の万里子のパスポート。1年に何度も出張を重ねていたことがうかがえる。「タイの税関では、染めたサンプルを何度も行き来させることを、とても不思議がられました。たとえばタイのシルクには、お蚕の生糸にセリシンという成分が多く含まれていて紙のようなハリがあるんですが、日本でヤッコに実際に着て歩かせて、快適さや強度を確かめたいわけです。最初の頃は“この前送ったものが、なぜまた送り返されてくるんだ?”と、彼らには理解できなかったようでした」
タイでもロンドンでも、役所へ持参する書類は「はい」と受け取られはするが、そびえ立つ書類の山に詰まれて、いったい返事がいつくるのか、いや、許可が果たしておりるのかすら読めなくて、当初は不安の連続だったという。タイでは若いプラーが交渉にあたったが、国を相手に女性1人で貿易事業を申請するのに苦労も時間も要した。
英国の厳格さに太刀打ちするには、これはもう最強のプロフェッショナルを立てるほうがよいと判断。まずは秘書をあたった。友人の紹介で出会ったイギリス在住20年以上というキャリアの女性は、ざっくばらんな人柄で会った瞬間から意気投合。すぐに契約してイギリスのビジネス事情を詳細に彼女から得ていく。
さらに、ロンドンで300年の歴史を誇る弁護士事務所に所属する凄腕弁護士ロバートを担当につけて、会社の登記から銀行の手続きなどあらゆる手ほどきを受けた。郷に入れば郷の強い味方を――。ここでもやはり、万里子流の“人を信じる力”が、世界に愛されるブランドの構築に大きく作用したようだ。
今回お話ししたロンドン進出には、その頃すでに20代になっていた万里子の子どもたちの協力もあった。若い世代の感性や意見は、万里子にはどのように映っていたのだろう。次回の連載では「母としてのデカマリ」についてうかがう予定。どうぞお楽しみに!