Vol.12 耳を傾け、とことん向き合う“デカマリ流”子育て 〈その1〉
育児に手がかかる大変な時期に会社を立ち上げ、子どもたちの多感な10代の時期には海外進出で日本を留守にしがちでもあった万里子。仕事と“母として”の歩み、どのように両立してきたのだろうか。
年子の姉弟、青(セイ)ちゃんと狩(カリ)ちゃん。「リカルドと私とで大切にしようと決めていたのは、子どもには常にスキンシップで愛情を伝えるということ。コミュニケーションの基本であり、マナーであるとも思うのです。年子で生まれた“私たちの赤ちゃん”に対しても、今いる仲間と同等という考え。だから扱いも同じように。理解し、理解されるまでとことん向き合う姿勢を大事にしてきました」
夜8時を過ぎたら大人の時間!?
仕事で多忙を極めながらも、産後3年間は“子ども中心”の考えに立ち、できる限り母乳で、離乳食も自らの手で支度し一緒に食べる、そんな時間を大事にした。
「赤ちゃんだからといって猫のような可愛がり方はしない、人間として尊重する姿勢でいたい、と思っていたのです」と万里子は振り返る。話す時も幼児語は使わず、丁寧な表現で言葉をかけるように気を配っていた。
1974年、写真館で撮影した1枚。青2歳、狩1歳。とはいえ、寝る時間に関しては、大人と子どもの線引きを明確に。「夜8時には寝るように躾けました。8時になればそれぞれの部屋に入り、大人は仕事をする。子どもが寝たあとで宴席へ向かうこともありました。そういう日にはベビーシッターを頼んで。お昼間は家政婦さんを頼んでいましたし、私たちが帰宅するまで常に大人が交代でいるよう予定を組んでいました」
子どもたちが小学校にあがる頃、八雲の一軒家に引っ越すタイミングで、運よく家事全般を任せられる住み込みの人に巡り合えた。政府機関の団体から審査を受けて紹介された、この家政婦さんは、バリバリのアメリカ英語を話す素敵なマダムだった。
アメリカンな風がそよぐ家
“本田のおばさん”―――長女の青(セイ)も弟の狩(カリ)も、このマダムをそう呼んですぐに懐いたという。姉弟が小学生だった1970年代当時、お菓子屋さんでも、まだあまり見ることのなかったアメリカ仕込みのクッキーを日々のおやつに焼き上げ、誕生日には見事なケーキをこしらえる本田のおばさんは、アメリカ軍の官舎で将校さんのハウスキーピングを長く手がけてきた人だった。
アイロンがけもお料理も、まるでホテル並みの仕上がり。長崎で被爆したことから、アメリカの教育を優先的に受けて雇用を保障されたのだという。万里子も初めて出会うタイプの人だった。
スピッツ1匹とともに2階に住み込んだ彼女は、日曜にはミサへ出かけてボランティアに勤しみ、朗らかな人柄でご近所にもとても愛された。万里子たち家族4人のウィークエンドは、海や山川へキャンプに出かけるなど充実の時を過ごすもの。オフは子どもたちと“無茶な遊び”をする日、と決めていた。
子供たちが小学生の頃。週末ごとに家族で自然の中へと繰り出していた。狩くんのハンガーストライキ
「大変です、大至急お家に戻ってきてくださいますか!」
いつもはどこか優雅な本田さんから、万里子の仕事先へSOSの電話がかかってきたのは、狩が小学校1年生だった頃。もうすぐくる参観日をめぐって、“お母さんと本田のおばさんが仕事を代わればよい”と言い張ってハンガーストライキをしているということのようだ。
「びっくりしました。子どもがそんなことを考えて意見を伝えてきたことに。頭ごなしに叱るのではなく、向かい合ってしっかり話をしなくては、と急いで帰宅したのを憶えています。問題が起きたときには、先入観や主観を抜きにしたゼロスタートで、まずは相手の話を聞く。仕事でも家でも、私のそのスタンスは変わりません」
狩が小学校に入学した記念に。青は2年生。産んですぐの頃から、怒涛の会社設立・経営の荒波を駆け抜けてきた万里子。“よそのお家とは違う忙しいお母さん”だと理解して、これまでお留守番に不満を言ったりはしない姉弟だったが、狩は弟ながらに“僕が青ちゃんを守る!”と行動に出る強気な子であった。
「『本田のおばさんが会社に行って、ママにお家で働いてほしい』という彼の提案に、狩なりに観察して出した結論なのだなぁ、といじらしく思いました。『うーん、凄いことを考えたねぇ』と、まずは本人が深く考えたことに感心したと伝えました」
「その上で、お母さんは会社のことに責任があり、本田さんが代われるようなことではない。お仕事をする人は皆プロであり、また、一人でできるものでもない。さまざまな人とチームを組んで、そのプロの人たちをトップに立ってまとめる社長さんという仕事をママはしている、と。母の仕事や生き方について絵本を読むようなトーンで説明し、社長業とはそういうものだと諭しました。逆に家事のことは、本田さんは超一流でお母さんも敵わない。世界の上流ランクに通ずる素晴らしいわざを持っている。その完璧なテーブルセッティング、そしてあらゆるマナーはあなたたちも学ぶところが多いのよ、ママも新しいスタイルの生活を学ぶことがある、という話もしましたね」
事実、本田さんを採用する際の決め手となった一つには“ネイティブなみに英語が話せる”という点もあった。家事だけでなく“姉弟によい影響を与えてくれる人”と考えてのこと。自分が不在の時間にも、世界に通用する力が自然に身につく環境を気にかけていた万里子だった。
さて、参観日はどうなったのか?「リカルドと私と、仕事を必死に調整して、夫婦で参観してきました」。ファッショナブルなご両親だね、と学校中の話題をさらったという。
デカマリ流子育て論は、まだまだ続きます。次回もお楽しみに!