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〈連載〉取引先の倒産をバネに、新会社を設立。服を作る楽しさに没頭する日々がスタート!

2022.12.13

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デカマリと素敵な仲間の45年 私たちのニッポンファッション革命

天然素材を美しい色合いに染め上げた着心地のよい服で愛されるブランド「ヤッコマリカルド」をはじめ、さまざまな事業を手がけている「ワイエムファッション研究所」。渡邊万里子会長は80代にして今も、感度の高い発信を続ける“ファッションビジネス界のレジェンド”です。日本発のお洒落を元気づけてきたエピソードを連載で伺います。前回の記事はこちら>>

Vol.5 会社なのに研究所? 新感覚のチームを率いて


ヤッコマリカルドスタッフと、とことんディスカッッションを交わす若き日のデカマリ(渡邊万里子)。

思えば会社を設立したのは逆境のタイミングだった。その勇気、あっぱれ!である。

「大きな取引先だった『パシフィック通商』が倒産してしまったのです。計画倒産でした。『ヤッコマリカルド』を1977年に商標登録して、雑誌に取り上げられたり、ポップアップショップが大成功した後も、商社からの企画・デザイン・生産管理、ライセンスビジネスの仕事も引き続き請け負っていました。その筆頭クライアントであるパシフィック通商の計画倒産は、私たちが大きな被害を受けることを意味していました」


普通ならショックで立ち上がれないはずだ。だが、デカマリこと万里子は違った。瞬時に大きく舵をきったのだ。1979年3月のことだった。

ピンチはチャンス、機敏に決断して社長となる


「ダメージは確かに大きかったけれど『自立するチャンスが訪れた』と前向きにとらえたのです。資本金100万円で自分の会社を設立する決断をしました。全財産を失っても縮こまらず機敏に行動する時だ!と思ったのです」。

――やはりデカマリはただ者ではない。結果的に、自身のブランドに集中できる環境を整えることに成功したのだから。

「それまでは、リカルドの実家が経営する『マルエイ』という会社の中で、ファッションビジネスを行わせてもらっていたんです。これを機に、結婚写真などを手がけていた元々の写真館業務の『マルエイ』、リカルドのスタジオ『モナリザ写真館』、そして私が指揮を執るファッションの会社、と3つわけることにしたわけです」

「自分の会社では純粋に作りたいものを作る。染色にもとことんこだわりたいし、扱う布地の種類ももっと自由に広げよう。発想を転換してオリジナルを生み出すこと、この“研究心”を大切にしたくて、社名には“研究所”というワードを入れようと思いました」

「ワイエムファッション研究所」。

万里子たちは1979年に会社を立ち上げた。自社ブランド「ヤッコマリカルド」を有する会社の社長に万里子はなったのだ。

洗濯機をズラリと並べて“染め”にこだわる


ブランドをスタートさせた当初は、会津木綿をうまく“料理”してモードを切り拓いたことで注目された。しかし、万里子は次なる“素材”を求めて、研究に情熱を傾けていく。いつまでも会津木綿の人気に頼れるわけではないと、時代の先を読んでいた。

雑材と見なされていたキャラコや細布(さいふ)を、加工し“料理”することを万里子は思い立つ。創業してすぐは、神宮前2丁目のマンションの1フロアだけの会社だったので、3台の洗濯機を家主さんの庭に置かせてもらって染色していたという。やがて商品が売れだすと染色がどうにも間に合わなくて、神宮前5丁目に一軒家を借りた。駐車場に7台、サンルームにも5台の洗濯機を並べてフル稼働させた。

ヤッコマリカルド創業まもなくは神宮前2丁目にあるビルの1フロアだけを借りていた。社内中、いたる所に染め上がったばかりの商品を干していたのも、懐かしい思い出。

商品化に追われながらも、試行錯誤して染色の“研究”に没頭するのは、実際とても楽しかった。会社創立からのメンバーのひとり、ケンちゃん(渡辺ケン)が万里子の要望に応えつつ、染めのエキスパートとして成長していく。

「あの頃はまだ、素材によって縮絨(しゅくじゅう)が変わることすらもわからず、すべて手探り状態でした。ケンちゃんと私とで、一つ一つ記録をとって、理想の生地を生み出すために、研究と改良を重ねましたね。大変な作業ではあるけれど、面白くてたまりませんでした」。

ヤッコマリカルド神宮前5丁目のオフィスにいたのは1994年頃まで。万里子が気に入っていた社長室でのワンショット。

“布地開発重視の物づくり”を行うと心に決めて、売り先は全く考えなかった。「スタッフに対しても『遊び心をもって楽しく作ろう、お金はあとからついてくるものだ』と言っていました。これは今でもよく、若い人たちにかける言葉でもあります」。

“ファッションをアートする”と万里子はしばしば口にする。「だって、アートの心がなければ、ファッションは人に伝わらないでしょう? 限られた素材で“料理”をする!」という信条のもと、経営者としてのスタートを切った万里子はブレることなく物づくりの道を邁進した。

しかし、百貨店のバイヤーの反応は……微妙なものだった。「君たちの服は、トレンドの狭間にある“好き者”が着る服だね」と言われたという。その言葉は今でも忘れられない。

ラフォーレ原宿に出店の大躍進!


時代的には“若者文化”という言葉が飛び交い、デザイナーズブランドも台頭。既に国内で成功していたコムデ ギャルソンがパリコレに初参戦を果たした1981年のこと。万里子たちのもとへ「ラフォーレ原宿に空きスペースが出るから、出店してみない?」という話が舞い込んだ。さっそく申請を行い出店にこぎ着けた。

ヤッコマリカルド「若者文化を発信する!」というコンセプトのもと1978年に開業した、当時のラフォーレ原宿。竹下通りは人、人、人であふれかえった。

ラフォーレ原宿の正面玄関を入って、階段を半階下ってすぐの右手。地下0.5階の絶好の場所だ。来館したほぼすべての人の目にとまり、多くの人がその前を行き交うロケーション。

万里子は内装にもアイディアを発揮。鏡を効果的に配置して、ゆったり洗練されたショップに仕立てた。入りやすく、とどまりやすい店。見事である。美しいカラーバリエーションをもつ服も人目を引いた。

ヤッコマリカルド
ヤッコマリカルド1981年、ラフォーレ原宿へ出店。記念すべき「ヤッコマリカルド」の第1号店となった。上の写真は、出店前夜に搬入&ディスプレーに奮闘中の1コマ。

大人の女性の服が、ボディコンシャスな流れに向かいつつあった時代に、敢えて“オフボディ”シルエットを中心に展開したことも、ブランドの個性を強く印象づけて大成功。

「出店してほどなく、1000万円のセールスを記録したんです。ラフォーレ原宿側もびっくりしたみたいで、表彰されたりなんかしちゃったの」というから、すさまじい快挙だ。流行の隙間にいる“好き者”の服と言い放った百貨店のバイヤーたちは、さぞ驚いたことだろう。

今でこそ、隙間を狙った“ニッチなビジネス”という戦略は一般にも知られているが、時代に先駆けてニッチ(隙間)を大きく広げてみせた万里子。その先見の明、恐るべしである。

さて、この大成功に大きく貢献した“伝説の凄腕店長”のエピソードも、デカマリの人を見る目の確かさ(というか、非凡な人を呼び寄せる力とでも言おうか)を裏付けるものとして、とても面白いのだが・・・・・・、続きはまた次回に!

Information

ヤッコマリカルド広尾店

東京都港区南麻布5-16-4

TEL 03-3473-1668
営業時間 11時~18時
定休日 不定休
“今”を自由に生きる人の個性を素敵に輝かせられるように。1977年創立の「ヤッコマリカルド」は心地よく着られる天然素材にこだわり、絶妙な美しい色合いの染めはもちろん、こまやかなピンタックなどの手仕事を軸とした丁寧なものづくりをしています。装う人の年齢を超越するような、リラックス感を伴ったモードスタイルに出会えます。 URL:https://www.yaccomaricard-online.jp/

渡邊万里子(わたなべ まりこ)

デカマリこと渡邉万里子
ファッションブランド「ヤッコマリカルド」をはじめ、数々のファッション事業を有する「ワイエムファッション研究所」会長。「ヤッコマリカルド」では、ロンドンを手始めにヨーロッパ、クウェート、ニューヨークと国外にも商品を展開。タイの自社工場を中心に海外に工場を複数持ち、グローバルに活躍している。1938年(昭和13)北海道小樽市生まれ。84歳の今も元気に、プライベートな時間にはインナーマッスルのトレーニングジムへ通う。“発想のスケールが大きなマリ”という意味でいつしかニックネームは「デカマリ」に。明るく豪胆な人柄を慕うファン層が、業界や年代を超えて広がっている。

公式Instagram: @dekamari_ymfashion

写真提供/ワイエムファッション研究所 取材・原稿/大杉美氣

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