第22回 名付けのミステリー
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
昔からお付き合いのある愛犬家のご婦人が、折り入って相談があるというので話を聞くことにした。
「先生、先代ではお世話になりました。この度、3代目の犬を迎えることになりました」
「そうですか。愛犬を老衰で見送った悲しみよりも共に暮らした思い出の楽しさが勝っている方は、何度でも犬を飼うものです」
「つきましては先生のお名前を頂きたく存じます」
「と言いますと?」
ご婦人は手焼きサイズの写真を私に見せながら続けた。
「この子に“潤一郎”と名付けようと思います」
そこには何だかタワシみたいな口ひげを生やした、イタズラっ子そうなテリアの子供が写っていた。
「ええと……この
くわんくわんの仔犬にですか?」
私は少し嫌だなと思いつつも了承した。
「先生は丈夫そうだし滅多なことでは死にそうもないので
あやかろうと思いまして」
「なるほどね、そういえばよく見るとこの犬は天才っぽいですね!」
と言ってみると、ご婦人は
「馬鹿でも良いのです。でも病気にならず逞しく生きる子に育ってほしいのです」と返してきた。
「あ、そうですか」と私。
実は我が病院の患者には、把握しているだけでも3頭の“犬の潤一郎”が存在していて、飼い主たちの願いは一様に“元気いっぱいの人生”だという。犬にどんな名を付けようが自由だが、私はいつも飼い主と愛犬のやり取りにハッとさせられてしまう。
「潤一郎、しずかに」「潤一郎、それ食べちゃダメ」「潤一郎、座れ、お座り!」
こんな会話を聞くたびに自分のことだと思ってしまうのだ。何だかどの子も落ち着きがないが、確かに病気知らずで健康だし、姿勢が良くキリッとした犬に育っている。まあ何といっても彼らは名前が潤一郎だから、本家の潤一郎としてはオツムの中までは保証できないけれど、とりあえずいいんじゃないでしょうかという感じではある。
さて、仔犬を選び家族として迎え入れ、飼い主が最初に行う愛犬生活の第一歩はこのように名付けなのだが、私は長年の経験から確信していることがある。名前は非常に重要な意味を持ち、その犬の一生に大きく影響を及ぼすのだ。
ところで、皆さんは「忌み名」をご存じだろうか。諸説あるが簡単に説明すると、これは親子や配偶者などの信頼関係のある相手以外には決して公に明かされない“本当の名”のことを言う。腹に一物ある者に知られてしまった場合には、呪いによって言いなりにされる可能性があると信じられていたらしい。だから普段はそれを隠し、仮の名の「通り名」を名乗って生活するという古代日本の風習なのだが、一種の言霊信仰のようなものだと理解してよいと思う。
私には「諺はかなり正しい」という持論があるのだが、昔の人たちの知恵はなかなかどうして真理にせまっていて、“名前の魔力”についても現代科学では解明されていない何らかの力が働いている可能性は否定できない。
以前、見るからにネクラなカップルが仔犬を連れてやってきて“ヒカゲ”と名付けると言った時、私は「どうせならヒナタにしなさい」と助言したものの、彼らの意志は固かった。証明こそできないが、ヒカゲが病気がちなのは名前のせいなのでは?と常に心にひっかかり、その短い一生を看取った時は無性に悔しかった。陰と陽の選択肢があるにもかかわらず陰気な名を選んだ場合には、悪い結末を招く力が働くのではなかろうか。
「うちの柴犬は“タンゲ”と名付けました」
その飼い主がそう言った時、「ほらまた来た!」と思った。案の定タンゲは犬同士のケンカで右目に深手を負い義眼の犬となった。“丹下左膳”とフルネームではなかったのは不幸中の幸いで、もしもそうだったとしたらきっと右腕も失っていただろうと想像した。物語のキャラクターの名をもらうなら、その身体的特徴にも注目するべきなのかもしれない。
ガブリエルはキリスト教において三大天使の一人である。しかしこの聖なる名を用いるとなぜか咬み癖がある犬に育つことが多い。愛犬に“ガブリ”と咬まれた大怪我で何針も縫うことになった飼い主にとって、愛犬の怒りの唸り声は大天使が最後の審判の際に吹き鳴らすラッパの音よりも恐ろしいことだろう。もし名前の神のような存在があったとしたら、かなりのトンチ好きに違いない。このような変な語呂合わせで現実世界に問題をもたらす癖があるのではないだろうか。