〔特集〕世界を虜にした「前衛芸術家」 草間彌生と花 世界各地で大規模な展覧会が開かれ、その動向が常に世界から注目されている前衛芸術家の草間彌生さん。草間さんといえば、ポップな水玉が代名詞。今号の表紙を飾る草間さんの立体作品もまた水玉に彩られています。と同時に、モチーフとしての花も、草間作品に欠かせない存在です。創造の原点は故郷・松本市の花畑にあります。平坦ではなかったここまでの道程。病と歩み、ひたむきすぎる努力の果てに到達した孤高の存在、草間彌生の花と人生に迫ります。
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前衛芸術家 草間 彌生1929年長野県松本市の種苗問屋の末娘として生まれる。10歳頃から絵を描き始め、幻視を体験。京都市立美術工芸学校に進学、卒業後松本に戻る。1957年に渡米。ニューヨークでネット・ペインティング、ソフト・スカルプチュア、鏡や電飾を使ったインスタレーションやハプニングなどで活躍し帰国。1987年北九州市立美術館、1989年ニューヨークの国際芸術センターでの回顧展を機に世界的に再評価の動きが起こり、MoMA、テート・モダン、ポンピドゥ―・センター、M+をはじめとした世界各地の美術館で大規模な展覧会を開催、作品も所蔵されている。
スミレの声を聞いた
幼少時の幻視・幻聴から歩み出した芸術の道

《ねぐらにかえる魂》(1975)1975年、帰国後初の個展を開催。建畠さんはコラージュ作品を見て「衝撃的でした。これほどの天才だったのかと」。死を思わせる幻想的な世界。(世田谷美術館所蔵)
松本~京都時代
種苗業の家に生まれて絵の世界へ
長野県松本市で種苗業を営む名門の家に生まれた草間さんは、スケッチブックを携え、花畑に遊びに行き絵を描くのが好きな少女でした。1941年、高等女学校に上がった頃から幻視・幻聴といった体験をするようになります。
5歳の頃。

1929年、松本市で種苗業を営む名門の家に4人きょうだいの末娘として生まれる。両親は不仲で、母は絵ばかり描いている娘を咎めた。
「私はスミレ畑でもの思いにふけって座っていた。すると突然、スミレの一つ一つがまるで人間のようにそれぞれの個性をした顔つきをして、私に話しかけてくるではないか。(中略)私にはスミレの花が人間の顔に見え、それが全部私の方を向いている。私は恐怖で足がガタガタと震えるのをどうすることもできなかった」(『無限の網』より)
《無題(花のスケッチ)》(c.1945) 10歳の頃に花瓶に生けた花を描いたスケッチ。©YAYOI KUSAMA

《無題》(1939)花器に生けた花のスケッチ。全体に水玉が描かれている。網目のような模様も。©YAYOI KUSAMA
草間さんはこうした体験を絵にすることで、心を静めていったといいます。
戦争も終わった1948年、京都市立美術工芸学校の日本画科に編入。ここで正規の美術教育を受けます。この頃の傑作の一つが《玉葱》。この作品について「草間さん自らが『速水御舟を超えた』といっていた」と語るのは、草間彌生美術館の館長で美術評論家、詩人でもある建畠 晢(たてはた あきら)さん。
《玉葱》(1948)京都市立美術工芸学校の卒業制作。©YAYOI KUSAMA
「速水御舟を『自分と同じ幻を見る人だ』というんです。草間さんがいうのは御舟の『柘榴』などの細密描写の絵のことでした。凝視の眼差しの先に幻影を見るということだと思いますが、そういう植物のイメージは今日までずっと続いていて、巨大な花にしても南瓜にしても植物は彼女にとって一番重要なモチーフの一つなんです」
《残夢》(1949)初期の傑作の一つ。世界の終末を告げるかのような朽ちたひまわり。©YAYOI KUSAMA

1951年頃、アトリエにて自分がデザインしたセーターを着てたくさんの作品と。
学校を卒業後、松本に戻った草間さんは23歳で初の個展を開催。その後も個展、国内外の美術展への出品などで期待される新人として評価を高め、両親の諍いに翻弄される日本を離れ、渡米を夢見るようになります。
そしてアメリカの画家、ジョージア・オキーフの作品《黒いアイリス》に共鳴し、オキーフに手紙を送ります。思いがけず来た本人からの返事を契機にニューヨークへ。16年に及ぶ渡米のきっかけが花の絵で知られるオキーフであったことは、何かの因縁なのかもしれません。
ニューヨーク時代~帰国
渡米し、NYアートシーンの寵児に

1961年、ニューヨークのアトリエにて《無限の網》の前で。
ニューヨークで最初に注目された作品が《無限の網》です。渡米後の厳しい生活の中で、病と闘いながら、数え切れないほどの白い網目で巨大なキャンバスを埋め尽くした絵画シリーズ。そして、強い強迫観念(オブセッション)が平面を超え、立体までを覆ったソフト・スカルプチュアと名づけた立体作品。
《無限の網》部分。「グレーの部分は黒に薄く白を被せている。2層の透過光によってすっと向こうに抜けるように見える」と建畠さん。
「重要なことは、戦後の1950年代の終わりから1960年代の前半にかけてのニューヨークスクールの転換点の中で、ポップアート、ミニマルアートの最も先駆的な役割を草間さんが果たしたことです。モダニズムの前衛のピークといえるような傑作を生み出したのです」
1965年頃、《マイ・フラワー・ベッド》(1962)に横たわる草間彌生。Photo : Peter Moore ©Northwestern University

《無題》(1963)フォトコラージュ作品。

第33回ヴェネチア・ビエンナーレの会場にゲリラ的に出品した《ナルシスの庭》(1966)と草間彌生。
草間さんが主導した数々の「ハプニング」は、ベトナム戦争で傷つく若者を見て芸術で反戦を訴える行動でした。裸の男女をニューヨーク近代美術館の彫刻庭園に集めるなどの過激な表現は、当初大きく注目されたものの1960年代後半には活動の場を失いました。体調を崩し、1973年に帰国。日本で待ち受けていたのは厳しい現実でした。
《無題》(c.1966)フォトコラージュ作品。《Accumulation No.2(集積No.2)》に横たわる草間彌生。

《自己消滅 #2》(1967)水玉に覆われたコラージュ。
スキャンダラスな存在という烙印、父の死、悪化する病。それでも自らを救済するために作品を作り続けます。
「オブセッションは彼女自身を救済するための行為ではありますが、実は『自他の同時救済』です。彼女は絵画によって世界を救済できるという非常に強い信念を持っているんです」
十数年後、それは明るい色彩を纏って世界に姿を現すことになります。
(次回へ続く。
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