「落ちこぼれだった自分」を奮い立たせた初渡仏の経験
今や、国際的な食イベントにも引っ張りだこのスターシェフの一人となった神崎さん。しかし、インタビューの中でも度々「私は才能がないから」と口にするほど謙虚。同時に「でも、私、諦めが悪いんです」とにっこり微笑む姿が印象的です。
調理師学校の在学中に和食、フレンチの店の調理場で経験を積んだのち、卒業とともにそのままフレンチの店に就職。
しかし20歳の頃、「当時おつきあいしていた料理人の彼がフランスに修業に行くというので、勢いでついて行ってしまった」のだとか。
「行けば何とかなるかもという甘い考えと、所持金がほとんどなかったせいで、本当に大変な思いをしました。ただ、いろんな人から反対されてフランスに来てしまったので、このままでは帰れないという意地もあり、必死でしがみついていたという感じです」と笑いながら振り返ります。
修業時代の辛い思い出も明るく話してくださった神崎さん。「フランスではなんでも主張しなくては伝わらない。フランスに来て随分性格が変わりました(笑)」いつか見返したいという思いとともに再びフランスへ
初渡仏では、語学学校に通いながら200以上のレストランに手紙を送っては、「残念ながら採用できません」という返事を受け取る日々。
さらには電車を乗り継ぎプロヴァンス地方のレストランに訪れ、憧れの女性シェフに「働きたい」と直談判するも、労働許可証がないゆえ門前払いされるなど、苦々しい経験もたくさんしたという神崎さん。
でもその後、アヴィニヨンにあるレストランで研修する機会を得て、さらにはそこの部門シェフの紹介でパリの3つ星レストラン「ルカ カルトン」で研修できることに。「一度、3つ星で働けたらあとは楽」だったと、ビザが切れるまでいくつものレストランで経験を重ねます。そして帰国。
しかし「いつかフランスで認められて、見返してやりたい」という思いから、5年間飲食店で経験を積み、2007年に1年間のワーキングホリデービザとともに再びフランスへ旅立つのでした。
2度目のフランス滞在でビッグチャンスを得る
2度目となる渡仏では、断られながらも粘りに粘ってアルボアの2つ星レストランの厨房で働けることに。
でも「研修生だったので、最初は給金ももらえず、あまりの極貧生活に、恥ずかしながら料理人であるのに自宅ではポテトチップスを主食にしていました。友人たちもそんな私に気を使いおごってくれたりと、お金がないとこんなに惨めな気持ちになるんだ、と初めて実感した出来事です」。
そんな極限状態を味わいながらも、10か月研修生として働いた同レストランでまかない担当となり、どんな料理にも毎日ソースを一から作って添えるというルールが課せられた経験は、その後の神崎さんの料理人人生において大きな財産となっていきます。
そして残りの2か月はイタリア国境近くの街、マントンの「ミラズール」で働くことに。熱心な働きぶりが評価され、シェフから労働許可証の申請を提案され、晴れて正規の料理人としてフランスで働くことになるのです。
肉の旨みを引き出す抜群の火入れの具合は、世界屈指の名店で肉部門のシェフを務めるなど、多くの経験を積んできた神崎シェフならでは。世界的レストランでスーシェフに抜擢
神崎さんがその後7年間席を置くことになった「ミラズール」は、2019年に3つ星に昇格し、「世界のベストレストラン50」でも1位に輝いた、今世界で最も熱い視線が注がれるレストラン。
当時からシェフのマウロ・コラグレコ氏の求めるレベルはとても高く、多くのスタッフが音をあげて辞めていったといいます。
「シェフの要求が大変であればあるほど、それは私にとっては可能性でしかなかった。シェフはやる気があればどんどんチャンスをくれ、正当に評価をくれる方だったので、シェフに喜んでもらいたいという一心でした」。
そこで前菜・ハーブ、肉・魚など一通りの部門シェフを務めたあと、ついにスーシェフに。「ようやく自分の居場所が見つかった」、そう思えた瞬間でした。
そして彼女の奮闘もあり、ミラズールは2012年2つ星を獲得。また、最後の1年間はシェフ・ド・キュイジーヌを務めるなど、一流レストランで様々な爪痕を残してきました。
ピーコックグリーンが美しいヴィルチュスのファザード。