岸さんがすっと中央に立った途端、無機質な温室全体が息を吹き返したように見える不思議。執筆活動が中心になった今も、数々の名画で主演をはってきた大女優のオーラは失われていません。ドレス/エスカーダ(エスカーダ・ジャパン)イヤリング ネックレス ブレスレット/すべてブルガリ(ブルガリ ジャパン)靴/ロッシーニ(南青山 レヴィケーショップ)自分史の断片(かけら)から。5月にまつわる物語
文・岸 惠子『家庭画報』から、4月1日発売の5月号に予定していた私の掲載頁を、6月号に変更して発売日が5月1日になると聞いて、これも何かの縁かと思った。読者が手にするのは私の好きな5月!
冬の寒さから去り、夏の炎暑からも遠い春爛漫のこの月は、私に幸や不幸をもたらし、躍り上がるほどの喜びや悲しみを運んでくれたのだった。
“ 発売日が5月1日になると聞いて、
これも何かの縁かと思った。
読者が手にするのは私の好きな5月! ”この日のロケ場所は以前にも来たことがあるという岸さん。「懐かしいわ。寒い日だったのは覚えているけれど、何のお仕事だったかは思い出せない。昨日あったことも忘れるんだから、仕方ないわよね(笑)」。その初めが、12歳の時の5月29日。太平洋戦争末期、米国の爆撃機B29の空襲で横浜が瓦礫と化した忘れられない日。
『岸惠子自伝』(岩波書店、2021年5月1日発売)に詳細は書いたので重複は避けるが、防空壕から飛び出して焼夷弾の炸裂と機銃掃射の飛び交う阿鼻叫喚の地獄へ一人逃げ出したお蔭で九死に一生を得た。生き物が焼けただれる胸を衝く異臭と瓦礫の中で、《今日で子供はやめる》と決意した日だった。
物語を書く人になりたかったのにジャン・コクトーの『美女と野獣』に魅せられて女優になり、『君の名は』など大作と言われた作品に出て「スター」というものになった。その有難い身分に馴染めず、フランスの医師であり、映画監督でもあったイヴ・シァンピの元へ奔(はし)ったのが24歳。フランスという未知の国に着いたのは空が紅(くれない)に染まる5月1日の午後、当時海外旅行は自由化しておらず、二度と祖国の土を踏むことは出来ないとの思いからこの日を私の「独立記念日」にしたのだった。
“ イヴ・シァンピの元へ奔った24歳の時。
パリの地に着いた5月1日を私の“独立記念日”にした ”待ちに待った娘が生まれたのが5月23日。私をみっともないほどの「ばばバカ」にさせた初孫が生まれたのも5月28日。
まるで語呂合わせを楽しんでいるような書き出しに恐縮はするもののまだ続く……。見たかったアフリカやヨーロッパを旅した結婚生活は素晴らしかったけれど、私の我儘で離婚を決意したのは私が41歳の誕生日……。当時のフランスはキリスト教故に協議離婚なんて人間的、文化的な裁量はなく、代わりに別居という法律があり、私はそれに甘んじて、恩人である夫の家を去ったのが、これは意識して1975年の5月1日。
離婚という乱暴な大手術が、かえってお互いの美点を露呈して、私たち二人は、離婚後の方が愛情も尊敬も深まったのだった。
それなのに残念! イヴ・シァンピは、次回作がクランクインする前日、61歳という若さで、何の前触れもなく「心不全」で旅立ってしまった。それからの永い年月、私の独りは続いた。危険を伴った仕事や地球の秘境への旅をヒリヒリしながらも楽しんでいた。
そんな日々の中のある年、まさに5月1日。その日が誕生日、という人に出会った。声の低いステキな人だった。人生とはオツなもの。今でもその人とのそこはかとない友情は続いている。
ここまでは、5月にまつわる私の個人的な歴史。辟易してお読みくださった方々には御寛恕いただきたい。
自分史のようなものを……との要請に甘えたのかも知れない。