林香寺に安置されている十一面千手観音。古来、地域の守護仏として地元の「十王堂」に祀られていた。穏やかな表情が、拝む人の中にも観音様の心が存在することに気づかせてくれる。自分自身と語ることで哀しみは少しずつ癒やされる
縁(ゆかり)の人々が集まり、故人を思い出して語り明かす通夜では、意外なエピソードが飛び出して笑ったり驚いたり。遺族の哀しみは自然に癒やされたものでした。
これと同じ心の変化を私たちは「自分自身と語る」ことで得ることができます。哀しみから目をそらさず、かといって漠然と感情に浸るのでもなく、哀しみを細やかに観察するのです。
なぜ哀しいのだろう、何が哀しいのか、どの出来事が哀しいのか......と次々と疑問符を投げかけていく。すると過去のいろんな出来事や感情が引き出されて、ありがたかった、腹が立った、悔しかったなど哀しみ以外の反応が生まれてきます。
主たる感情は相変わらず哀しみなのですが、従の感情が生じることで相対的に軽くなり、哀しみに埋没しなくなるのです。
ご遺族の話に耳を傾けることは僧侶の大事な役目です。多くのかたが涙ぐみながらも生前のご様子や思い出を語り、語り終わると安堵の表情を浮かべておられます。
「故人はどんなかたでしたか?」──こう問いかける言葉にも喪失の哀しみに寄り添う優しさがあるのでしょう。
◆哀しみに寄り添う仏の言葉◆
慈眼視衆生(じげんししゅじょう)『観音経』の言葉。衆生(生きとし生けるものすべて)に慈しみの目を向ける観音様の心を表す。大事なのは衆生には自分自身も含まれること、そしてその心は誰もが持ち合わせていること。心理学用語ではセルフ・コンパッション。これを実践するのが慈悲の瞑想だ。
和顔愛語(わげんあいご)『大無量寿経』の言葉。仏教の説く8つの正しい道(八正道)の3番目「正語(しょうご)」の実践。日頃から笑顔を絶やさず、温かみのある言葉を発することを心がけていると、相手の心が和らぐだけでなく自分自身の心も優しく穏やかなものに変容していく。
撮影/平岩 享 取材・文/浅原須美 構成・取材・文/小松庸子
『家庭画報』2022年6月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。