人生観
「主君を諫めようとする志は一番槍に勝る」
――『常山紀談』
武田軍が勝利し、徳川家の武将が多く戦死した三方ヶ原の戦い。命からがら浜松城に戻った頃に家臣へ残したと伝わる。一番槍を狙う者は、うまくいけば戦功が得られ、必ずしも死ぬとは限らない。しかし諫言(かんげん)する者は、主君に認められないばかりか疎まれたり、罰を受ける可能性がある。「それでも諫言を行う者こそ真の忠臣だ」。武田軍との戦いで、危険な賭けをした自身の判断について思うところがあったのだろう。
「どれだけ力が強くとも一人で駕籠は担げない」
――『岩淵夜話』
駿府城で隠居生活を送る家康は、2代秀忠の側近に、その者の振る舞い次第で将軍を貶めることがあるため、2つの心がけを教えた。一に、「主人と近しいと自然と驕るようになる。驕れば怠け、悪事が起こるので気をつけること」。二に、「何事も自分一人で解決しようとすべきではない。一人で駕籠は担げない」。謙虚であることを重んじた家康らしい言葉である。
「大将は謀(はかりごと)について言わないものだ」
――『武功雑記』
小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と織田信雄・家康が奪い合った蟹江城の戦い。開戦当初、城を占拠したのは秀吉勢。家康の重臣、酒井忠次は敵の援軍の入城を防ぐよう進言したが、「大将は謀について言わないものだ」とひと言。入城を許したのは城内の兵糧が尽きることを目論んでいたため。重臣にも策を明かさず、敵に見破られなかった結果、勝利を収めた。
「水は船を浮かべもするがひっくり返しもする」
――『明良洪範続編』
天下を統治するために税を軽くした家康は、秀忠にもこれを継続せよと伝えたが、同時に、維持する難しさも述べている。「泰平が続くと上層部は驕り、仕える者は媚び、お金が回らなくなる。すると役人は税を厳しくし、民衆から反感が生まれ、国は衰える」。天下人は、民という水に支えられた船に過ぎず、傲慢になるなということを伝えたかったのだろう。
1615年8月3日、家康が一分判金210枚(52両2分)を受け取った折の領収書「判金請取状」で全文自筆。大坂夏の陣に勝利し滞京する家康は、これをしたため翌4日に出京し、24日に駿府へ帰城。多忙の中、金銭の受領書にもいとわず筆を執る。律義で筆まめな性格が窺える。所蔵/久能山東照宮博物館「天下は一人の天下ではない天下は天下の天下なのだ」
――『徳川実紀』
家康は余命いくばくかの頃、多くの遺言を残したとされるが、なかでもよりよい世を望んでいたことが窺える言葉がある。「自分の命が尽きても、秀忠がいれば天下は安心である。しかし、将軍の政治が道理にかなわず民が苦しむのであれば、子孫でない者が政を行ったとしても、それは私の本意。天下とは人々の天下である」。まさに命懸けで天下統一を果たした後、驕らず、世のために尽くす。偉大な家康像が見えてくる。
「平家を滅ぼしたのは平家鎌倉を滅ぼしたのは鎌倉」
――『武野燭談』
下剋上の時代を終焉させ泰平を築いた家康。変化する世の中で肝要だと説いたのは、「家とそこに属する人が、家の仕事をきちんと守ること」。平和になると、家業以外のことをしようとする人も現れるが、それは世の秩序を乱す原因となるという。「家業を忘れ驕る者は、家を失い、身を滅ぼす」。平家を滅ぼしたのは平家であり、鎌倉を滅ぼしたのは鎌倉。そして後に徳川を滅ぼしたのもまた徳川である。
「上を見るな 身の程を知れ」
――『駿台雑話』
天下人として成功を収めた家康は、ある日、若い家来衆に自分の身を保つための5文字と7文字の教えがあるから聞きたいか、と問いた。両方聞きたいという家来に、5文字は「上を見な(見るな)」。7文字は「身の程を知れ」だと教えた。人質として育ったことは大いに人格形成に関係しているのだろう。自身の立場をわきまえ、堅実に歩んできた家康の実感のこもった格言である。
「小器用な者ほど大きな知恵を持たない」
――『名将言行録』
織田家の人質として、尾張の清須で暮らす竹千代(家康)に、鳴き真似の得意な黒ツグミという鳥が献上された。家臣は鳴き声に感心したが、竹千代は「この鳥は己の声を持っていない」と献上を断ったといわれている。理由は、いずれ人の上に立つ自分にとって、己の知恵を持たぬものはふさわしくないから。人質でありながら、野心家な一面が垣間見える。
※参考文献『超約版 家康名語録』(ウェッジ刊)
『家庭画報』2023年5月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。