「まだバリ島がリゾートにもなっていない時代、ウブドへ行きました。打楽器が奏でるガムラン(民族音楽)を聴きながら、電気もなしに月明かりの下でご飯を食べてね。あんなにものどかな場所はあれ以来でしょうか。いい経験をさせてもらいましたよ。山を越えて遠くまで一緒に出かけて本当にいろんなものを見せてもらった。古いお寺、バティック(染物)や織物の工房、海岸の塩田で天然の塩を作るところも。塩は色がきれいな純白じゃないけれど、これが実においしい。うれしいほど、いろんなことを知ることができた旅でした」
こちらもバリ島の木型です。商品用としてではなく、土産話の一つとして持ち帰られました。和菓子に使うには、彫りの部分が少し大きいとのこと。バリ島の木型が創作のヒントに
バリ島での経験は、山口さんにとって休息だけでなく、創作への豊かな発想を生み出すきっかけになっているのです。
「昔、版画家の徳力富吉郎さんに、戦前の朝鮮の木型を見せてもらったことがあります。以来、外国の木型に関心を持っていました。外国へ行くとそうしたものを探しています」と、山口さんが見せてくださったのは持ち手に鳥をかたどったバリ島の木型でした。
「そんな話をしていたら『バリ島にもあるがな』と大村さんが言われてね、木型を作らさはった。その頃バリ島にはお菓子屋さんがなくて、うちでみな作ってたようです。私たちはもち米に砂糖と水で粘りを出しますが、向こうでは樹液を使っていました。バリ島は甘いものが豊富な場所ですから」。
また木型とともに拝見したのが、バティックの染め型。緻密で個性豊かな柄は山口さんを魅了しています。和菓子の生地に型押しして部分的に切り取ればよいものになるのでは、とイメージを膨らませていらっしゃいますが、名人の山口さんとしても、いまだ実現に至っていない難題です。
「こうしたものに対する目もバリ島に行ったことで養われたと思います」
本来はバリ島でバティックの生地に柄をプリントする金属のスタンプ。この型を和菓子に取り入れたいと山口さんは長年、思いを巡らせています。京都の料理人にいま一度、大村さんを知ってほしい
大村さんは、おばんざいと言われる昔ながらの家庭料理と歳時記の関係を熟知していました。また、京料理の名店の味や食材・調味料などについて膨大な情報を書き残しています。京都の料理と大村さんについてお聞きしたところ、山口さんは「現代の京都の料理人に、いま改めて大村さんの本を読んでほしい」と力説されました。
「いまの京料理で惜しいのは、大村さんが伝えたような料理、暮らしを知らないこと。地方から京都へ修業に来られる方も多いから、昔の京都の暮らしを知っている人がいなくなってしまいましたからね。大村さんのことを、もっとみんなが知って、そこから料理を習ってほしい」
長らく、話す機会のなかった大村しげさんとの記憶、現代の料理人に伝えたい思い。数十年の時間を超えてもなお、鮮明な思い出を聞かせてくださった山口さんの笑顔は、とても晴れ晴れとしたものでした。本連載では、今後も大村しげさんにまつわる、京都の名店や名所をご紹介していきます。
Information
京菓子司 末富 本店
京都府京都市下京区松原通室町東入る
川田剛史/Tsuyoshi Kawata
フリーライター
京都生まれ、京都育ち。ファッション誌編集部勤務を経てフリーライターとなり、主にファッション、ライフスタイル分野で執筆を行なう。近年は自身の故郷の文化、習慣を調べるなか、大村しげさんの記述にある名店・名所の現状調査、当時の関係者への聞き取りを始める。2年超の調査を経て、2018年2月に大村しげさんの功績の再評価を目的にしたホームページをスタートした。
http://oomurashige.com/ 取材・文/川田剛史 撮影/中村光明(トライアウト)