●詩人の再読の書本をめぐる名エッセイ集『本は読めないものだから心配するな』で、“本に冊という単位はない”と明言している管さんいわく、本はそれぞれの本のなかにあるものというのは、現代人が思い込んでいるもっとも誤った観念のひとつ。
“そのつながりはわからないけれど、ある本のページと連続する別の本のページは必ずあります。それは同じ人が書いた本でもなければ、同じ言語、時代ですらなく、けれど、あらゆる本の一節は、時間的にも空間的にも言語的にも、とんでもなく違う本とつながる可能性を持っている。一冊一冊の本はあくまで仮の姿で、その本の魂はほかのところに広がっていてとんでもない結びつき方をしているんです。まあ、とはいえ……”と、いいながら管さんが選んでくださった再読の書。
いずれもシンプルでストレートなことばで驚くべきことが語られていて、そこには4人の、世界をつくっているものに対する感受性が共通している、という。
『L'inconnu sur la terre』 ル・クレジオ『L'inconnu sur la terre(地上の未知なるもの)』は、いわば気象のあらゆる変化や地形など、自然と出会い、ぶつかったときに生じるきらめきや火花だけが書き綴られた作品です。物語でもないし、詩でもない。言葉による発見と運動感だけが延々と綴られる。本人のデッサンもあって、何度も読み返しては、つねにインスピレーションを受けています。ル・クレジオは、今、生きている作家で僕がもっとも強く共感を覚える人です。
『What Am I Doing Here』 ブルース・チャトウィン『What Am I Doing Here(ぼくはここで何をしているんだ)』を読むと、彼の山師的・変人的なところも含めた特異なキャラクターや、けれど、ものすごく感覚の鋭い人物の文章がよく味わえます。チャトウィンはヘミングウェイを高く評価していて、この本を読むと、彼がヘミングウェイの、シンプルだけれどつらつらと続いていく文章をお手本にしていることがわかります。チャトウィンとル・クレジオはともに1940年生まれ。ふたりともすごい旅人で、国や文化の違いを一切気にせず、権威主義的なところはまったくなく、自分の感覚のままに、あるものをそのまま受け止めている。日本人でいうと、僕の師匠だった西江雅之先生(1937年生まれ)とも通じるものがあります。
『Qu’est-ce que la philosophie?』 ドゥルーズ&ガタリふたりの最後の著書『Qu’est-ce que la philosophie?(哲学とは何か)』で、彼らは哲学と科学と芸術がどういう関係にあるかを明快に語っています。ドゥルーズ&ガタリの哲学は、哲学の詩と呼んでいい、ビリビリとするような電荷を帯びた文章です。彼らの哲学には主体も客体もなく、物と意識という区別もなく、究極的にはたぶん時間と空間もなく、すべては流動のうちに生成するという、恐ろしくも爽快な存在観が語られています。僕のこの本は、タイトルのところにBLCKBRDというどこかのお店でもらったステッカーを貼って、タイトルを勝手に替えちゃいました。この本を僕のように読んでいる人はほかにいないわけで、どんな本でも、その人が手元に置いて読みつづければ、世界で一冊の本になっていくんです。その意味でも電子書籍より紙の本、物としての本のほうがいい。
川崎市生田にて※管さんの再読の書、3冊は翻訳が以下のタイトルで刊行されています。
『地上の見知らぬ少年』ル・クレジオ(鈴木雅生訳)
『どうして僕はこんなところに』ブルース・チャトウィン(池 央耿訳)
『哲学とは何か』ドゥルーズ&ガタリ(財津 理訳) 管 啓次郎/Keijiro Suga
詩人・比較文学研究者
1958年生まれ。明治大学大学院理工学部研究科PAC(場所、芸術、意識)プログラム教授。2010年から『Agend'ars』『島の水、島の火』『海に降る雨』『時制論』の四部作を発表。他の詩集に『地形と気象』(暁方ミセイらとの連詩)、『数と夕方』など。読売文学賞を受賞した『斜線の旅』をはじめ『ストレンジオグラフィ』などエッセイ集のほか、フランス語、英語、スペイン語からの翻訳書多数。
取材・構成・文/塚田恭子 撮影/大河内 禎