著名な文化人との交流も
順教尼の生きざまは、多くの人の胸を打ち、『無手の法悦』では、交流のあった吉川英治、吉井 勇、日本画家・木村武山らとの逸話が紹介されています。また、巡業の一座の一員であった柳家金語楼(出会った当時は5~6歳)は、のちのちまで順教尼を実の姉よりも大切にしていたことも書かれていました。木村住職によると、雑誌への投稿を通じて与謝野晶子とも交流があったそうです。
「そのむかし臙脂(えんじ)を塗りしくちびるに筆をふくみて書く文ぞこれ」。庭園に建つ歌碑には、吉井 勇が順教尼に寄せた歌が刻まれています。名前に聞き覚えがなくとも、吉井 勇の書いた「ゴンドラの唄」の「いのち短し、戀(こい)せよ、少女(おとめ)、」のフレーズをご存じの方もいるはずです。※庭園は非公開ですが、柵の外から歌碑を遠目に見ることができます。大村しげさんは、順教尼の長男の奥さまから、在りし日の暮らしぶりを丁寧に聞きとり、紹介。その記述は、順教尼への並々ならぬ敬意に満ちたものでした。
「わたしは、順教尼がこどもをお産みになったということに、なによりもいちばん感動している。(中略)順教尼が亡くなるまで、身障者のために尽されたのも、母の強さとやさしさで、その役割を果されたのにちがいない」
「わたしが仏光院に色気があると思うのも、それは、伽藍だけの文化財ではなしに、生きた心がお寺にこもっているからやろう」(ともに『静かな京』)
順教尼に特別な親しみと敬意を感じていた理由
実は大村しげさんの父親は順教尼の親戚と非常に親しかったため、順教尼とはよく顔を合わせていました。得度した後も、父親が「妻吉つぁん」と親しく呼んでいた様子や、大村さん自身も、首から定期券を下げ、軽やかに歩く順教尼の姿を自宅の近所でよく見かけていたことが『静かな京』には書かれています。折に触れ、父親から順教尼の話を聞いていたという大村さんは、親しみと深い尊敬の念を強く抱いていたようです。単なる京都の観光案内ではなく、多くの人を救済した順教尼の生き方を読者に伝えたかったに違いありません。
「このお寺こそ、一人の女性の生き方をとおして、じっくりと見せてもらいたい」(『静かな京』)の一言からも思いが伝わります。
料理や美しい風景、ショッピングは旅の醍醐味ではありますが、生きることの意味を見つめなおす旅があってもよいのではないでしょうか。
佛光院に足を運び、順教尼の作品や人生を知ることから学ぶことが多くあるはずです。
Information
佛光院(ぶっこういん)
京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町16
川田剛史/Tsuyoshi Kawata
フリーライター
京都生まれ、京都育ち。ファッション誌編集部勤務を経てフリーライターとなり、主にファッション、ライフスタイル分野で執筆を行う。近年は自身の故郷の文化、習慣を調べるなか、大村しげさんの記述にある名店・名所の現状調査、当時の関係者への聞き取りを始める。2年超の調査を経て、2018年2月に大村しげさんの功績の再評価を目的にしたwebサイトをスタートした。
http://oomurashige.com/ 取材・文/川田剛史 撮影/中村光明(トライアウト)