――順子さんは、小学生のときに『人魚姫』を読んで衝撃を受けたそうですね。昔話って、“お姫様が幸せになりましたとさ”で終わるんですけど、人魚姫は幸せになりましたとさ、で終わらないので、子ども心にショックを受けたんですね。あとで考えると、あれが文学との出合いだったかなと思います。『人魚姫』の本をくださった先生は、文学賞にもいらしてくださいました(笑)
――その後、どのように詩と出合ったのでしょうか。大学生のとき、萩原朔太郎の詩を読んですごいな、と。そのときは到底及びもつかないと思ったけれど、その後、資生堂の『花椿』という雑誌で、入選した人の詩を読んで、“このくらいなら私も書けるな”と思って(笑)。それで自分でも書き始めたのかな。大学卒業後、青土社という出版社に勤めたのですが、そこが私の詩の学校でした。詩集の担当として、先生方にゲラをお持ちすると、手を入れていかれるのですが、それは非常に勉強になりました。
――詩人の方々がゲラに赤字を入れる前後で、何かがグッと変わるのでしょうか。たとえば、飯島耕一さんは“エレベーターのなかに海は湧いてこない”という1行を、〝エレベーターのなかに海が湧いてきた〟と直されたんです。“湧いてこない”よりも“湧いてくる”と書くほうが、海を渇望している感じが出てくる。なるほどと詩に開眼しました。それが頭に残っていたのかな、私も“事務所の階段を上っていると/海が湧いてきた”という詩を書いています。これは盗作ではないと思うけど(笑)。
――やはりみなさん、いろいろな蓄積や無意識の連想があって、作品が生まれてくるのではないでしょうか。それはありますね。青土社では、大岡 信さん、白洲正子さん、立原えりかさんの著作集などを担当しました。白洲さんは、車谷が“白洲正子さまは魂の師である”といっていましたが、やはり因縁めいた感じはあります。
――以前、現実から一歩浮いたところで考えたり、詩を書いたりしているとおっしゃっていましたが……。意識してそうしているわけではないけれど、そうなってしまうというか。〝あなたは上の空だ、ものを見ていない〟と、いつも車谷にいわれていましたよ。あの人はしっかりものを見る人だから。
――上の空、というのは、放心という状態にも通じそうですね。そういえば、大岡 信さんの本に“一種の集中的放心”ということばがあって、おもしろいなと思いましたね。集中と放心があって、詩が書ける状態なので、よくおっしゃったな、と。詩人にもいろいろなタイプがいますけど、吉原幸子さんは文字を組んだとき、見開きで終わらず1行はみ出すと、格好悪いからといって、見開きで収まるように合わせるんです。それも驚きました。
――順子さんならどうされますか。やっぱり1行はいやですね。タイトルの周辺に空き(スペース)をつくってもらって、2行にしてもらうとか。吉原さんは朗読も素敵でしたが、リズムというか、韻律、耳の人なのだと思います。
――朗読はお好きですか。私は自分からやらせてください、という感じではないです。朗読に向いている詩があれば、向いていない詩もあって、暗誦できるくらいの詩もありますけど。以前、銕仙会というお能の会で、観世銕之丞さんが朗読した草野心平の「秋の夜の会話」はすごくよかったです。朗読は、間ですね。恥ずかしいと、つい早口で読んでしまうけれど、慣れている人はちゃんと間を取ります。
――20代、30代の頃と結婚後では、詩で表現することが変わったと思いますか。車谷にいわせると、他者が出てくるようになった、と。それまでは、独りぼっちで海を見ている感じだったのかもしれません。ただ、他者が出てきたからいいとは考えていなくて、詩は独りでも、他者が出てこなくてもいいと思っているんです。詩は、神様の前で吃るように書け、といったのは誰方でしたっけ。だから子どもたちに、詩はどんなふうに書けばいいですかと聞かれたときは、神様とお話ししているように書くのがいいと伝えます。最初は“あのね”で書き始めて、誰かにお話ししているように書いて、最後に“あのね”を消す。誰かと話しているようでも独り言だったり、他者が出てこないことはたくさんありますから。
向丘にて 高橋順子/Junko Takahashi
詩人
1944年、千葉県海上郡飯岡町(現・旭市)生まれ。東京大学仏文科卒業後、出版社に勤めながら、77年第一詩集『海まで』を刊行。『幸福な葉っぱ』で現代詩花椿賞を、『時の雨』で読売文学賞を受賞など、共著を含めて多くの詩集を発表。四半世紀を共に過ごした私小説作家の夫との日々を振り返った『夫・車谷長吉』で講談社エッセイ賞を受賞。『星のなまえ』『水のなまえ』など、自然をモチーフにしたエッセイ集、なまえ(名前)シリーズなど著書多数。
取材・構成・文/塚田恭子 撮影/大河内 禎