モードの中心地、パリのファッションに魅せられて
渡仏後、田舎の語学学校に通いながらも、毎週末のように訪れていたパリの街の人々のファッションに感化された佐藤さん。いつしかモードの世界へと進むことを志すように。
そして思い立ったが吉日と語学学校をやめ、オートクチュールの裁断が学べるというモデリストの育成校に入学。その後、突然の廃校を機に、モデリスト職業訓練校「AICP」に編入することに。持ち前のガッツと器用さで同校を首席で卒業し、生徒の誰もが羨むイヴ・サンローランのオートクチュールのタイユール(スーツ)部門で研修する機会を得ます。
アトリエにて。トップメゾンで研鑽を積む日々がその後の糧に
「そこでは、今は亡きサンローラン氏の姿を目にすることもありました。今ではその10分の1ともいわれていますが、当時はオートクチュールの顧客が全世界に3000人。“古きよきモードの時代”の最後の空気感を肌で感じることができたのは、かけがえのない経験です」。
さらにその後、敬愛するマルタン・マルジェラ氏がクリエイティブディレクターを務めるエルメスでの研修のチャンスを得て、さらにはアトリエから、デザインストゥディオの人員として抜擢。研修後、契約社員として採用され、コレクションショーの組み立て方など、多くのことを学びました。
YSLのアトリエでの1か月の研修で、課題を予定の半分の2週間でやりきってしまった佐藤さんは、「ジャケットを作りたい」と申し出ます。アトリエの職人たちが手取り足取り、「YSL方式」のオートクチュールの手法を伝授してくれたといいます。研修期間を大幅に延ばしてもらいながら、ついにジャケットが完成! 「今見ると時代を感じますが、手縫いのボタンホールや馬の尻尾の毛芯の使用、美しい襟の返しを実現するためのハ刺しというテクニックなど、オートクチュールの技法が詰まっています」生涯の財産となる多くの人との邂逅と幅広いデザインの経験
なかでも2つのトップメゾンでの研修、契約社員として働いた後、15年勤めたミッシェル クラン社での経験は、佐藤さんのデザインの可能性を大きく広げてくれたと語ります。「僕がミッシェル クランで得たものは、人との出会いと幅広いアイテムのデザインをさせてもらったこと。デザイナーのミッシェルの人脈は本当に広く、フィリップ・スタルクやピーター・リンドバーグ、そしてカール・ラガーフェルドなど、世界の名だたるトップクリエイターたちと仕事する機会ももらえました。
また日本のアパレル企業とライセンス契約を結んでいることもあり、レディス、メンズの服だけでなく、バッグ、時計、メガネ、傘、手袋、帽子からマッサージ器や女子高生の制服まで(!)、広く浅く、さまざまなデザインの知識を積み上げられたことも現在に生かされています」
佐藤さんの「デザインをしたい」という熱意に打たれたミッシェル氏は、アシスタントデザイナーという新しいポストを新設し、佐藤さんを迎え入れてくれることに。さらにフランスで外国人の雇用に厳しい体制が強化され始めた当時、困難であった滞在許可証の取得にも社を挙げて奔走してくれたのだとか。ミッシェル氏の誕生パーティにて、パリを拠点とするファッションデザイナーの先駆者、高田賢三氏と。