村岡恵理さん(作家)が語る 母・村岡みどりさん
祖母にあたる翻訳家・故村岡花子さんの生涯をまとめた恵理さんの著書『アンのゆりかご』には、亡き母・みどりさんの少女時代の話も綴られています。
幼少期からの母の人生を調べ、追うことで、今まで気づかなかった、美しく愛おしい「母の肖像」が浮かび上がってきました。
村岡恵理さん著作家。村岡みどりの次女として、東京都に生まれる。主な著書に『アンのゆりかご ― 村岡花子の生涯 ― 』(新潮文庫)、『ラストダンスは私に~岩谷時子物語』(光文社)がある。写真はご両親が結婚披露宴を開いた、東京・麻布の国際文化会館にて。1階にある図書館(会員制)は、恵理さんが調べ物などでよく利用する場所。美しい庭園に面したティーラウンジにも、母娘の思い出がたくさんあるという。「母を通して、“優しさほどの強さはない”ことを知りました」── 村岡恵理
少女時代を過ごした大阪の家で、母・みどりさんと一緒に。何げない表情やしぐさから、穏やかな日常が伝わってくる。村岡みどりさん1932年、村岡花子の妹・梅子の長女として誕生。5歳で早世した花子の長男・道雄と同じ誕生日だったことから、後年、花子の養女となる。花子の没後、遺稿集『生きるということ』を出版。1991年開設した「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」を主宰。仕事よりも優先したのは母親であること
若い頃、母は翻訳の仕事をしていたこともあり、言葉遣いのきれいな人でした。素敵な文章でエッセイも書いていたので、もっと書くことを続ければよかったのに……そう思って、なぜ翻訳の仕事をやめたのか、聞いたことがあります。
すると母は少し考えてから「もしかしたら、それが自分の母親に対する反発だったのかもしれないわね」と。母が幼い頃から祖母は翻訳家として働いていたので、寂しい思いをしたのでしょう。ですから姉や私が生まれ、手がかかり始めたときに、仕事よりも母親であることを選んだのだと思います。
母・みどりさんが手がけた訳書の数々。『ローズの季節』の原作は、『若草物語』で知られるルイザ・メイ・オルコット。両親を亡くし、親戚の家に引き取られた少女ローズの成長物語である。みどりさんもまた花子さんが情熱を傾けた家庭文学への想いを継承した。そんな母でしたが、50代になった頃、「おばあちゃまの評伝を書こうかしら」といったことがあります。それを聞いて私は、絶対に書いたほうがいいし、そのためのお手伝いなら何でもすると伝えました。実際、書くための調査も姉と一緒に始めていたのですが、自分の親のことは書きづらいのか、なかなか筆が進みませんでした。
その後、母はがんになり、1994年、61歳で亡くなってしまいました。それまで自分が祖母について書くことになるとは思いもしませんでしたが、後年、出版された『アンのゆりかご』は、母の遺志を引き継ぐ形で生まれたものです。
あの優しさには敵わない、そう思わせる懐の深さ
母は物静かでいて朗らか。そして、とても優しい人でした。
本にも書きましたが、多忙を極める祖母に代わって、母は女学校に持っていくお弁当をいつしか自分で作るようになりました。そして、学校で「それは花子先生がお作りになったの?」と聞かれると、「そうよ」と。
家庭と仕事を両立させているという祖母のイメージを壊さない、けなげな気遣いができていたようです。世間のイメージとは裏腹に、家庭のことに手が回らなかった祖母は、母には頭が上がらない部分があったでしょうね。
訳書の中に残るのは祖母から母への贈る言葉祖母・花子さんが翻訳したパール・バックの『母の肖像』。花子さんは訳書を世に出すと、本の見返しに短い言葉を綴った一冊を娘のみどりさんに贈った。日頃の多忙を詫びる思いからか、「この訳書の中に、あなたの母の心をも読んで下さい」との言葉が記されている。そんな子ども時代が影響してか、母は料理が好きでした。外国人の先生のお宅でお料理を習い、自宅の庭でハーブを育てたり、当時まだ珍しかったブルーチーズを取り寄せたりして、いろんな新しいお料理を作ってくれました。
私が好き嫌いなく何でもいただけるのは、母が工夫して作ってくれたおかげです。なかでもよく覚えているのは、牛肉のたたきやレバーペースト、ベトナム春巻き、キャロットケーキなど。どれも大好きだったので、母のレシピを受け継いでいます。