ルーベンスは、1600年から8年間イタリアで学びました。その時に多数の素描を入手し、自作の手本とするためにアントウェルペンに持ち帰っています。
レオナルドの壁画はもはや存在していなかったため、ルーベンスは作者不詳の《アンギアーリの戦い》の素描を入手し、ペンとチョークと水彩で加筆しています(下・図3)。
図3 作者不詳《アンギアーリの戦い》(ルーベンスによる加筆)1603年頃、インク、チョーク、水彩、紙、ルーヴル美術館、パリルーベンスは手に入れた素描をよりよく理解するために加筆することがしばしばありました。非常に質の高い素描ですが、これもザッキアの版画と同様、目を突くフィレンツェ兵士の指が馬の尻尾で隠されています。
ザッキアの版画とルーベンスが所有していた模写素描における細部の相違は、「ドーリアの板絵」のオリジナル性を補強するでしょう。
また、ピールは、「ドーリアの板絵」のレントゲン撮影から、指で下地を擦る跡が右下に向かっているため、この画家が左利きであったことを確認しました。レオナルドは左利きであった上、他の作品にもこうした指の跡が残されていることから本作がレオナルドによる可能性が高まります。
ピールは、「ドーリアの板絵」がレオナルドのオリジナルであるという決定的な証拠をもう一つ挙げています。
落馬しそうなミラノ軍ピッチーニの鞍に、白い模様が浮き上がっていることに気づいたのです(図1の部分)。
この部分もまた、ザッキアは理解できなかったのでしょう、息子フランチェスコの衣で隠してしまっています(図2の部分)。
ルーベンス所有の素描も同様にフランチェスコの衣として描いています(図3の部分)。
この浮き上がった白い模様は、一体何でしょうか。ピールは、ここを拡大し90度回転させてみると、頭蓋骨のようなものが浮かび上がってくることを発見しました。
画面中央に潜む髑髏。敗軍の将が死ぬ運命にあるというメッセージだろうか。髑髏は「ドーリアの板絵」以外には描かれていない。敗軍の将ピッチーニはこれから死ぬ運命にあるため、レオナルドは作品のまさに中心部に、最も重要なメッセージ「メメント・モリ」すなわち「死を忘ることなかれ」を象徴する髑髏を潜ませたに違いありません。
何より、現在残されているいくつかの《アンギアーリの戦い》の模写のうち、髑髏が描かれているのが「ドーリアの板絵」だけであることは極めて重要な事実です。