形見分けとなったお母さまのきものと積極的に向き合っていくことを決意した阿川佐和子さん。“チンプンカンプン”なことばかり……と迷走しながら、歩みはじめたきものライフを、小粋なエッセイとともに連載でお届けします。
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精緻な網代(あじろ)文様に、リズミカルな花丸文が舞う泥大島。メモ魔だったというお母さまが、畳紙に「佐和子が生まれた年に」と記していた思い出の品です。母が亡くなり、実家の始末をしていたら、思いの外、大量のきものが出てきた。
母は父と結婚して以来、家でもずっときもので過ごしていた。後年、腰を痛めて洋服姿になることも増えたが、私の記憶の中にある母は、いつもきものを着ていた。あれだけ毎日、着ていたのだ。大量になるのも無理はない。私が子供の頃、母は割烹着を着て台所に立ち、朝は母の衣擦れの音で目が覚めた。
母の影響か、私も普段着きものが好きだった。いつか母のように日常的に着たい。目指す気持はおおいにあった。あったけれど、実行に移すことなくこの歳になっていた。
処分するしかないかしら。溜め息をつきながら畳紙を広げ、一枚一枚確認するうち、気が変わった。あ、このきもの、母がよく着ていたのを覚えている。こっちは私が生まれたときに買った大島か。ああ、この御召は母方の祖母から譲られたらしい。伯母からもらった羽織もある。畳紙の上に母の字で書かれたメモで知る新事実。同時にさまざまな映像が蘇ってきた。これこそ明治・大正・昭和を通じて引き継がれた我が家族の歴史そのものではないか。
歴史といえども棚に飾っておくものではない。保管する必要もない。娘の私が受け継いで、もう一度、袖を通せばどれほどきものは喜ぶだろう。現役として生まれ変わる力はまだじゅうぶんにある。
「え、持って帰る気? 着られるの?」
弟の呆れる顔を尻目に私は自分の狭いマンションに運び込んだ。が、弟の指摘は正しい。自分で着られない。しかしだからこそ、着付けを習うチャンスである。
さっそく私はネットを開いた。着付けの動画はいくらでも出てきた。その中の一つを選び、画面を凝視した。よし、まずは習うより慣れろだ。見よう見まねできものを肌になじませていけば、いつか着られるようになるだろう。
古稀を目前に、私のきものとの戦いが始まった。
「織りのきものに染めの帯」という、きもののベーシックルールでコーディネート。絞り染めと繊細な墨のタッチで、花と戯れる小鳥を描いた水浅葱色の染め帯に、手習いはじめのフレッシュな気分を映して。阿川さんが纏った大島紬は、「昭和30年広島」とメモされたアルバムにお母さま(写真右)の着姿が残っていました。旅先でもきもの姿で通していた様子がうかがえます。