〔特集〕誕生1250年記念「空海を旅する」──即身成仏への道今から1250年前に誕生した日本で最初の人類普遍の天才・弘法大師空海は、大宇宙の真理に従い、多様性(Diversity)を尊重し、すべてを受け入れること(Inclusion)を実践していました。その教えの根本唯一の目的は、人を幸せに導くこと。宗旨、身分、人種、生物、無生物を問わず、宇宙に存在するものすべては大日如来の顕れであるとした空海の教えの実践が世界平和につながります。
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宗旨や時代を超越して庶民に愛される 空海という人
【入唐求法】純粋密教の体系を組織的に学び取るため、804年、第16次の遣唐使派遣第一船に乗船。この時第二船には最澄が乗っていた。第三、四船は難破し、空海が乗る第一船も目的地から外れ福州長渓県の赤岸鎮に漂着。海賊船だと疑われるが、空海が記した文書でついに上陸が許可される。「高野大師行状図画」部分 高野山地蔵院/提供:高野山霊宝館
【満濃池】讃岐平野最大のため池。度々、堤防が決壊し修築に難航。821年に修築別当を任ぜられた空海が、水圧に耐えうるアーチ型の堤防を考案・指揮し、わずか3か月でその修築を終えた。空海が池に突き出た大磐石に護摩壇を設け祈りを捧げると、多くの人手が集まったという。空海の行った衆生救済の象徴とされる。撮影/本誌・西山 航
今から1250年前、讃岐国の豪族の家の三男として弘法大師空海が誕生します。幼少から貴物(とうともの)と呼ばれた秀才児で、一族の期待を担い15歳で上京。母方の叔父で、伊予親王の教育係も務めた阿刀大足(あとのおおたり)から漢籍を学び、18歳で官僚を目指して大学に入学しますが、一転、退学し仏教の世界に入ります。
私度僧として山林修行を続ける中、真魚は、“虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)”という虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える修法の途中、海と空しか見えない土佐の室戸岬・御厨人窟(みくろど)で空から一つの明星が飛来して口の中に入ってくるという神秘体験をします。
これが悟りの瞬間であり、“空海”と名を改めた契機となります。万巻の経を読んだ空海は、わが国での勉学の限界と純粋密教の体系を組織的に学び取る必要を感じ、唐土に渡ることを決意。唐では、長けた語学の才で唐人を驚かせ、密教経典解読に欠かせない梵字(サンスクリット語)もインド僧に手ほどきを受けすぐに修得。満を持して真言密教第七祖の恵果和尚を訪れ、わずか半年間で法のすべてを授けられ、真言密教の正嫡として即位します。
「“早く郷国に帰り密教を伝え、人々を幸せに導きなさい”という恵果和尚の遺言が、まさにその後の空海の行動指針となるのです」(菅法主)。
その代表とされるのが満濃池の修築です。空海は後に「利他をもって先とす」と説いています。自分のことは後回しにし、人の幸せのために働きなさいということですが、空海の活動の根本には、恵果の教えがありました。
弘法大師空海は今でも、高野山奥之院で生身を留め生きながらえながら衆生の救済を祈り続けているといわれます(入定留身信仰)。ここには空海を慕い、そばで眠りたいと願う人々の墓が並びますが、そこに生前の敵味方の区別や宗旨や思想、人種による差別はありません。すべてを受け入れ、万人に手を差しのべようとする、空海の包容力を象徴する場となっています。
「密教では宇宙の真理そのものを仏とみなし、宇宙に存在するすべてを大日如来の顕れだと考えます。その教えをわかりやすく紐解く曼荼羅に餓鬼まで描かれているのは、この世になに一つ不必要なものはないということの表れです。
そしてお大師様が唱えた“即身成仏”とは自分自身の中に仏があるとし、修行をすることでこの身このままで仏様になれるという考えです。仏を外に求めるのではなく、自分自身を大事にすることです。1250年の時を経てなお、現代に通ずる教えだと思っています」(真言宗善通寺派管長 菅法主)。