「自利(じり)」と「利他(りた)」のあいだには
最近、「利他」という言葉を新聞や雑誌でよく目にするようになりました。
「利他」というのは、もともとは古い仏教用語であるらしい。
「利」は、幸せとか、ご利益(りやく)といった意味だと思います。自分を犠牲にして他人の幸福を願うこと、と辞書には説明されている。
まあ、ボランティアという行為も、利他的な行為の一つでしょう。地震とか津波とか、大きな天災のたびに全国から手弁当で被害地にかけつけて、復興のお手伝いをする。
まあ、簡単に言えば、他人を思いやる行為です。ヒューマニズムという言葉にも重なるものがあります。
最近では、それが社会的、経済的な用語としても使われるようになりました。
「利他の資本主義」などという言葉もよく見られます。最近の流行語の一つでしょう。
そのうち「利他的ファッション」とか、「利他の音楽」などという話も出てくるかもしれません。
しかし、現代の資本主義の象徴ともいうべき銀行などが「利他的経営」などと言いだすと、ちょっと眉ツバものです。
本来は自分を犠牲にして他人を助ける、という思想なのですから。
いまのスズメの涙ほどの預金の利子を、ドーンと十倍ぐらいにあげてほしいものですが、そんなことをすれば、銀行はたちまち倒産しかねません。
この「利他」という言葉ですが、もともとは「自利利他(じりりた)」という用語でした。
「自利」はもちろん、自分の利益。他人の幸せを考える「利他」とは反対の考え方です。
仏教思想としての「自利利他」は、「自他一如(じたいちにょ)」ともいって、両者を二つに分けないのです。
身を挺(てい)して人を助けることが、すなわち修行であり、自分を救う道であるという。
それと同時に、自分が修行して道を極めることが、すなわち世の人々のためでもある、ということでしょうか。
どっちが先か?
そういうお説法を聞いて、
「どっちが先でしょうか」
と、質問したかたがおられましたが、
「仏教では、〈自利・利他〉を区別しません。〈自他一如〉と申します」
と、説明されて、うなずいておられましたが、どうも納得されたような顔ではありませんでした。
この、「どっちが先?」というのは、大事な話だと思います。
人里離れた山中にこもって、苦行を重ねて悟りを得る。その高貴な人格が世の中を照らす光となることは、まちがいありません。
また、寝食を忘れ、世のため人のために身を捧げて働く、それによって生きた仏となった人もいます。
しかし、現実に私たちの生活のなかで、この「自利利他」の考え方を、どう生かしていけばいいのか。そこが問題です。
私たちは一人で世の中に生きているわけではありません。
周囲の人たちと仲よくやっていく。皆に信頼され、大事にされる。なによりも皆に嫌われず、ちゃんとした扱いを受けたい。
誰でもがそう思っているはずです。できれば一人でも多くの人々に愛される存在でありたいと思う。
猫は「自利」、犬は「利他」か
そのためには「自利」か「利他」か、どちらかの優先順位をつけるしかないでしょう。〈自他一如〉は理想ですが、世の中は理想どおりにはいかないものです。
簡単に言ってしまえば、人に尊敬され、愛される道は、二つです。
自己主張をつらぬき、個性的な人間として認められること。要するに輝く人になる。
芸術家などがそのタイプかもしれません。宗教家はもちろんです。
もう一つは、自分を捨てて利他行(りたぎょう)に徹する道。要するに人につくす人になること。
友人グループのなかでも、自分は二の次で、仲間のために奔走し、縁の下の力持ちに徹する人がいる。いわゆる「利他の人」です。
話がとびますが、私は以前、金沢に住んでいた頃、犬と猫を一緒に飼っていたことがありました。
日々の暮らしのなかで、この二種類の動物が、本当に家族のように感じられたものです。
一緒に生活したことで、この両者の性格の違いがよくわかりました。
要するに猫は完全に「自利」のタイプ。
これに対して犬のほうは、まさしく「利他」の存在です。
猫は勝手に外出し、勝手に帰ってくる。犬のほうは、朝、私が起きてくるのを待ちわびて、「おはよう」と声をかけると、体を震わせて歓ぶ。
そのどちらもが面白く、私にとっては家族のような存在でした。
さて、あなたは「自利」の人でしょうか。それとも「利他」?
目標は「自他一如」。
でも、私たちにできることは、どちらかに徹することかもしれません。難しいことです。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》先日から身近のモノの整理にとりかかっています。これまで七十年ちかくの間に買い込んだ靴の山を前に呆然としているところ。ロンドンブーツなどという、むかし流行った靴などを前にして、思わず笑いがこみあげてくる始末。さて、どうなりますことやら。