口は禍(わざわい)のもとか
先日、人に聞いた話ですが、良寛さんは、人が話し終わらないうちに、かぶせて話をしてくる相手をひどく嫌がったそうです。
いますよね、そういう人が。
頭が良くてテンポのある会話をする人に、そういう傾向があるようです。
一を聞いて十を知る、といいますか。
そういう利口な人ほど、相手がしゃべり終るのを待っているのが、まどろっこしいのでしょう。
民主主義には意志表示が必要
「そう、そう、それなんだけどさ」
と、こちらが話し終らないうちに話のマウントをとって、自分がしゃべりだす。
こちらは最後に反対の意見を言おうとしているのに、早合点にもほどがある。
「いいえ、私が言いたいのは、そういうことじゃないのよ」
と、途中で相手の話の腰を折って、会話をややこしくするのもなんだし、ということで欲求不満のまま話が流れていく、みたいなことがしばしばあるものです。
と、いって、こちらが熱を込めて話しているのに、ぜんぜん反応のない相手というのもじれったいものです。
せめて賛成か反対かくらいの意志表示はしてほしいと思うのが普通でしょう。かと思えば、
「そうねえ」
と、曖昧にうなずきながら、ひょいと話題をちがう方向へ持っていく人もいて、会話というものは、なかなか難しいものです。
また最近は社会的地位のある人やタレントさんが、思わずもらしたひと言で大炎上、というケースもしばしばあります。
見ザル、言わザル、聞かザル、の三つのタブーを守れ、とは先人の教えですが、それも今の民主主義の時代にはそぐいません。
私たちは言うべきことは、言わなければならない。そうでないと個人の生活も、民主主義の社会も、成り立っていかないのですから。
この国の中世、民百姓(たみひゃくしょう)と呼ばれる人々が、もっぱら物言わぬ暮らしを強いられていた頃、蓮如という破格なお坊さんが登場します。
彼はそんな物言わぬ民衆にむかって、
「しゃべれ、しゃべれ」
と、けしかけます。
「しゃべらぬ者はおそろしき」
と、まで言いました。
偉いお坊さんの話を、ただ有難く聞くだけではだめだというのです。
彼は偉大な宗教家でありましたが、同時に庶民感覚といいますか、日常のことについていろいろと面白いことを言う人でした。
〈人は慣れると、手ですべきことを足でするようになる〉
などというのは、彼の名言の一つでしょう。私もときおり冷蔵庫の扉を足でけって閉めたりすると、ふと蓮如さんの言葉を思い出して首をすくめたりするのです。
人間同志が語りあう言葉の大切さ
人はしゃべる動物です。最近、人に教えてもらった川柳の一つに、人間だけが食事をしながら歓談するのだ、といった意味の作品がありました。
たしかにそうだと思う。以前、私のところには三匹の犬がいました。種類はちがうけれども、実に仲のいい三匹でした。
ところが、食事のときにはあらそって食べる。仲間を押しのけて。
「これ、おいしいね」
などとお互いに笑顔で語りあいながら食べたりはしません。ふだんは仲のいい三匹が、お互いに押しあいへしあいしながら必死で餌を食べる様子を思いだすと、和やかに歓談しながら食事をする動物は、ほんとうに人間だけかもしれないと思ってしまいます。
私たちは今、明治、大正、昭和の頃とは全然ちがう会話のしかたをしています。
まず、会話のスピードが段ちがいに速くなった。テレビを見ていても、お互いに早口言葉をきそいあっているような感じ。
歌もそうです。微妙なメロディーに数多くの言葉をはめ込んで、はじめて聞いただけでは歌詞がよくわからない。世代の相違だけでない証拠には、テレビ画面の方に今うたっている歌詞がテロップで出たりする。
時代が変ったのだ、というだけで見過すことではないでしょう。
言葉には、味もあれば香りもある。風情もあれば余韻もある。そこを大切にする、という考え方は、時代おくれだとは思わないのですが、どうでしょうか。
先日、AⅠ(Artificial Intelligence:アーティフィシャル・インテリジェンス)が作ったという俳句を読みました。
なかなかのできで感心しました。最初のものには、どこか寂寥感が足りなかったのでそう指示すると即座にいくつか作り直してきたものの一つです、と解説を受けて、なるほどと感心しましたが、さて、どうすればいいのか、と考え込む感じもありました。
人間同志が人間の言葉で語りあう。そのことの大事さが、今問われているのかもしれません。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》先週から帯状疱疹とかいう厄介な症状がでて、病院嫌いの私が、大学病院に通院しています。免疫力の低下が原因だそうです。すごく痛い。どうぞお気をつけください。