「60年間にわたる深夜族の生活が変わり、
自分でも驚いています。「他力」ですかね」(五木)
五木 それにしても2020年に、コロナというウイルスが地球全体を襲って、終息の気配はまったくなく特別な年明けとなりましたね。自分が生きている間に、こういう事態に遭遇するとは思いもしませんでした。何百年に一度の、人類の生活そのものが変わる、思想、哲学、文化、社会の在り方……すべてに影響を及ぼす大転換期に差しかかったと思っています。
僕自身、60年間、夕方に起きて執筆、朝陽を浴びてから寝るという、深夜族の生活をしていたのが、突然、朝7時半頃には起きるようになって、生活がガラリと変化してしまいました(笑)。
曽野 それはご健康になられてようございましたね、と言いそうになるのですが(笑)、読者は五木さんが健康であろうがなかろうが、あなたの小説を読めさえすればいいわけでしょう。
五木 そもそも小説家などというものは非常識な人間ですからね。それなのにこんなにうしろめたさのない、ひっそりした暮らし方になって逆に不安になるんですよ。何か目に見えぬ力のようなものが働いた、そんな気がしているのです。それを僕は「他力」と言っているのですが、振り返ってみると、自分の人生のいくつかの岐路の一つになったと思うのです。曽野さんは何か変化がおありでした?
曽野 私は何ひとつ変わらないんです。コロナが恐怖だとも思っていませんし、そもそもが家にいることが多いものですから、生活自体はずっと同じですね。
五木 コロナに対する恐怖はない、と。
曽野 ええ。ウイルスはウイルスというだけで、哲学も政治もありませんでしょう。それにもともと外界は人間に対して、優しいとは思っていないところがあるんです。私はアフリカの難民キャンプをはじめ、世界の危険地帯といわれる所を、あちこち訪ね歩いてきましたでしょう、その経験から、世の中はそれほど悲惨なこともなければ、逆に完全に身が保証されていることもないという、両面があると常に思っている。これまで何とか生きてこられたのは、運がよかったからなんですね。
五木 なるほど。それはおっしゃるとおりですね。特に我々、戦前、戦後、常に空襲にさらされ、疎開などを体験して生きてきた人間は、自分で自分の身をちゃんと守ろうという意識が強い。
曽野 生きるということは、そもそも危ないことですからね。人間は生きるか死ぬか、ですから。
五木 いい度胸だ。僕はときどき、東京の夜景をながめながら、一瞬にして、ビルの明かりが消えて真っ暗闇になるという幻想が、ふっと浮かんできたりするんですけど。
曽野 戦争中にそういうことがありましたが、そういうことを想像する癖は今でも残っています。でも全部が瓦解することがあっても、鼠数匹が、どこかで生きてるわと思っているところもある。ですから、先ほど大転換期とおっしゃったけど、私はそうは思わないの。転換なら終戦のときのほうが凄かったと思います。今、起こっている社会的な事態は、物質的、数字的なことで説明ができる。けれど私が……13歳の子どもが、終戦したと知らされた、それまで天皇陛下が神とされていたことが大きく覆ったことをはじめとしてね。ちょっとあの衝撃は今とは違うような気もします。
写真/アマナイメージズ「人の目を気にして、生活を変えることはない。
成熟とは自分で考えて決めること」(曽野)
五木 敗戦については僕も同じ思いです。それまで信じていたものごとが一瞬にして崩れた。それが後遺症のように残っていますからね。ですから政府や国は当てにならない。何かあったら救ってくれるだろうと安易に思うことはありません。このコロナ禍で、『こうしろ、こうするな』という命令されるような言葉には、気をつけたほうがいいですね。不安な時代になると、人は命令形の言葉を欲してしまうところがありますから。
曽野 『マスクを着けなさい』というのも、ひとつの例ですね。私は着けていませんし、必要なときは普通に外出しています。世間というものに同調して、自分の生活を変えてしまうことはないですね。
五木 いわゆる、日本人の強い傾向としてある、同調圧力とかいうやつですね。
曽野 ええ。本来は自分で考えて、判断して、決めてよいこと。むろんそこには責任がともないます。人の成熟とはそういうことではないでしょうか。