「なぜ地球規模の事態が起こったのか。
自然を破壊し続けた人類は、
いつかしっぺ返しを食らうと思っていました」(五木)
五木 それにしても、どうしてこのように地球規模の事態が起こったのかを考えてみますと、レイチェル・カーソンが1960年代に出版した『沈黙の春』という本がありますね。これまで自然破壊をし続けた人類への、「警告の書」であり、「予言の書」でした。
僕は世界の経済的、文化的、政治的なものすべてが、もうギリギリのところまで来ていたんじゃないか、もう耐えられなくなったところに来ていて、コロナというものがそこをひと押ししただけではないかと思っているんです。コロナが悪いのではなくて、必然的に世界が変わらざるをえなくなったのではと。先ほどお話しした、早起きになった変化も、何かしら本能的に働きかけられたような気がするのです。曽野さんはそんなふうにはお考えになりませんか?
曽野 私は、とりたててそういうふうには捉えていません。むしろ日本には「死学」というね、死に対する学問がもう少しあってもいいんじゃないかと、以前からお話ししているのですが、義務教育から教えたほうがよいと考えています。
五木 「死学」。それはどういうことでしょう。
「死はいつでも、何びとにも等しく100パーセント来るものです。
死に対する学問が必要です」(曽野)
曽野 つまり、日本は死という問題を常に避けて通っている国です。人はコロナがなくても、何かに巻き込まれて死ぬことがあるかもしれない。それが人生というものであって、死はいつでも、何びとにも等しく100パーセント来るものです。私はキリスト教で、私たちの宗教では子どもの頃から1日に7回、『よき死が迎えられますように』と祈るのですが、これはよいことだと思います。死を知ることで、生を知る。同時に「悪」とか「貧困」……とか、平等にできない人間の精神といったもの、性善説、性悪説の両方を教えないと、“人間”というものに到達しないと思います。両面があるとわかって初めて人生には厚みが出るものでしょう。日本はそういう意味での教育が貧しいと思いますね。
五木 なるほど。死の訪れをありのまま受け入れる。泰然という言葉が合うかどうかわかりませんが、曽野さんには信仰を持つ人の強さを感じるなあ。
曽野 中世から変わらないものですので(笑)。表向きだけはね。