- TOP
- きものチンプンカンプン
- 大切なきものにシミつけてしまった阿川佐和子さん。悉皆屋の染み抜き職人の元へ
さるパーティにてケーキカットをすることになった。当然のことながら、結婚披露宴の「ケーキ入刀」ではない。私の古稀のお祝いに仲間が用意してくれたのだ。有り難いやら恥ずかしいやら。照れの裏返しで緊張興奮しすぎたか、ナイフを握ってケーキに向かってまもなく、私を囲む人々から声が漏れた。
「袖が……、袖が……!」
何かと思って自らの袖に目をやると、たっぷり白いクリームがへばりついているではないか。
家に帰って急いできものを脱ぎ捨てて、改めて点検する。あららあ。袖の下や袖口数カ所にしっかりシミがついている。どうしよう。まずはタオルに水を含ませ、シミのついた箇所を叩いてみる。ヘタに洗剤をつけてきものの色が変わっても困る。でも、水で叩くうちに水ジミがつくのも心配だ。濡れタオルで何度か叩いたあと、ハンガーにかけて干す。干してはみたものの不安は拭えず、ドライヤーを持ってきて濡れた箇所を乾かしてみる。が、シミはぜんぜん取れていない。
悲しくなって、きものに詳しい編集者カバちゃんに連絡をする。
「クリームのシミをつけちゃいました」
するとカバちゃん、
「専門家のところへ持っていきましょう」
力強いお言葉をくださったものの、実際、きもの専門染み抜き職人のところをお訪ねする日程を考えると、だいぶ先になってしまいそうだ。……どうしよう。このまま放っておいて大丈夫なのかしらん?
と、疑心暗鬼に過ごすうち、再びきものを着て出かける日が訪れた。豪華アフタヌーンティーをいただくという趣向だ。女性四人で、「うわー、このケーキ、おいしい!」とか「これは何のサンドイッチ?」とか、かしましくも気取ってシャンパンを飲み、すっかりいい気分で帰宅して驚いた。またもやクリームをつけていたのである。
思えば私はきものの所作に慣れていないのだ。洋服の細い袖と同じような感覚で食べ物に近づくと、それは限りなくシミをつけやすい体勢になるということらしい。と、反省しても覆水は盆に返らない。そしてその日も私は濡れタオルを使ってシミのついた箇所をぱんぱん叩き、ドライヤーで乾かして、それでも取れていないシミを見つめて嘆息した。
さて、とうとう染み抜き専門店へ向かう日となった。悉皆屋という、その名も高貴な職人さん、家田さんの店を訪ね、きものを広げてコトの経緯を伝えると、苦笑いとともに、
「絶対に叩いてはいけません」
げげ。たっぷり叩いてしまいました。
「熱風のドライヤーもダメです!」
げげ。熱風ドライヤー、かけました。
でも朗報もあった。
「家に持ち帰ったら何もしないこと。何かするより染み抜き屋さんに持っていく。一週間から一ヶ月ぐらいあとでも大丈夫。確実に取れますよ」とのこと。
ただし、応急処置は必要。それは家に帰ってからではなく、「つけたその場所での対処」だという。今回のクリームのような油系のシミをつけた場合は、「まず乾いたティッシュかキッチンペーパーで拭い取る。おしぼりを使ってはいけません。絹糸は水をつけると傷みます」
いっぽう醬油などのシミの場合は、 「ティッシュを小さく畳んで水を含ませ、上からそっと押す。そのとき、さらしなどの厚手の布、あるいはキッチンペーパーなどをきものの下に当て、上下で挟んでそおっと吸い取る。ただ押すだけです。叩かない!」
まさに「痛いの痛いの飛んでけ〜」と母の手を傷口にのせて体温を移すような要領であるとみた。それをゆっくりじっくり何度か繰り返す。すると、「ほらね!」
実際に醬油シミの取り方を見せていただいたところ、本当に黒いシミがどんどん薄くなっていくではないか。
「ただし、そこで『取れた!』と安堵するなかれ。そこまで処置をしたあと、プロのもとへ持っていかないと、数年後に後悔しますよ」
そして家田師匠の最後の忠告は、 「プロのもとへ持っていったはいいけれど、シミがどこについていたか、わからなくなっちゃうことがあるんです。そのためには、シミをつけた時点で、スマホで写真を撮っておくといいですよ」
伝統的な技と現代のツールを組み合わせ、見事にシミを取り切ってくださる家田さんとお話ししていると、ケーキもお寿司も安心して食べられそうなウキウキした気分になってきた。ついでに私の顔のシミも取ってくださらないかしらね。
撮影/西山 航(本誌) 構成・取材/樺澤貴子